彼は夢のなかで見た。黄色い流線型の染みが右手から飛びかかってくるのを。瞬間、目をつぶり、トラックの横っ腹にそれが激突する音を聞いた。目をまた開くと、おのれの胸と平行にビオーンドの軽機関銃の鈍く光る銃身が、相手の車の粉々に砕けたフロントガラスに狙いを定めていて、男たちはすでに後ろからどすどすと地面に跳び下りていた。
2009年2月26日木曜日
パルチザン・ジョニー 〔第一の遺稿〕[Ⅰ][Ⅱ]
『パルチザン・ジョニー』(一九六八年版)がぼくの心を捕らえたのはいつのことだったろう? ぼくはまだ学生だったのではないだろうか? 夢中になって読んで、三七〇ページあまりを一気に読了してしまった。あんなに夢中になったのは、浪人生時代にペンギン版で読んだ『カラマーゾフの兄弟』、『悪霊』以来のことだった。『私的な問題』は全共闘時代に読んでその文学的な豊穰さと深い問題性、それにまさに私的な理由で、いつか必ず日本語にしようと心に決めていた。
『破綻』はあんなにも短い中編小説が辛くて──たぶん幼い頃の山村での思い出に俄かに襲われたためかも知れないが──読みきれずにいた(もちろん何年か後に、改めて読みおえたときには、最も好きな一書のうちに入っていた)。そのころに『パルチザン・ジョニー』を読んで、フェノッリオが紛れもなく大作家であることを確認できたのは大きかった。『日本読書新聞』にパルチザン・サガとして紹介記事を書いたのは前出『蜘蛛の巣の小道』(白夜書房)を訳出、出版した前後の一九七〇年代半ばのことだったと思う。フェノッリオと同じ一九二二年生まれで一九七五年に惨殺されたパゾリーニについては、その評論二作の翻訳出版が滞っているものの、去年ようやく『愛しいひと』(青土社)を出して少しは借りが返せた。フリウーリ語の初期詩群『カザルサ詩集』上梓の目途もついた。フェノッリオについては今度が最後のチャンスかも知れない。不退転の決意で臨まねば、ジョニーとミルトンに申し訳がない。
《ジョニーは丘の上の小別荘の窓からおのれの町を観察していた。ドイツ軍の七重の網をかい潜って、はるか遠くの悲劇の都ローマから、思いがけなく不意に舞い戻ったのち、その彼を潜伏させるために家族がこの別荘を急遽借りたのだった。地元でのあの九月八日の光景、一個連隊まるごと兵営が、乗員不足のたった二台のドイツ軍装甲車ごときに降伏したさまと、封印貨車でドイツへ流刑されるありさまを目の当たりにして、誰もが、家族も取り巻き連も、ジョニーが戻ってくることはないと思い込んでしまった。最良の場合でも、イタリア中部のどんな駅からでも出発したああした何本もの同じ封印貨車の一輌に詰め込まれていまごろはドイツに向かっていることだろう、と思われた。》
右の書出しで始まる『パルチザン・ジョニー』第一の遺稿は、全四〇章五三四ページである。第一章で見るように、汚い旋風みたいに生還したジョニーは、直ちに丘の上の小別荘で潜伏生活に入る。だが、落ち着かない。麓に下りて、やはり生還した従兄弟と会ったりしている。第二章以降を大急ぎで、しかも引用を交えながら、あらましを述べると、丘の娘との束の間の情事──
《彼はそんなにも間近にまじまじと丘の少女を見つめていたから、その眸の黄金のうすく散った碧玉を顕微鏡を覗くみたいに見ることができたのに、それでも彼女の声は幾重ものフィルターをとおしたかのように彼に届いた。「どう、よかった?」 彼女が吃った。「果てしなく。あなた……あなたってすっごく達者なのねえ。」しかしやがて彼は身を起こすと、叫んだ。「でもぼくはおのれが男だと感じない!」彼女は目を瞠った。「あなた、自分を傷つけてるわ……」なのになおもジョニーは、少女の言葉には聾で無関心に、いっそう大声で、くり返した。「ぼくはおのれが男だと感じない!」》。
《……その水音が響くだけだった。彼女が言った。「あたしが女でなかったなら、あたしは女になりたい。その次もまた女に。その次の次もまた女に。でもそれがだめだったら、あたしは青鷺になりたい。」それから歌った。「あたしがあなたといる瞬間はいま終わろうとしている」と、理由はないのに言わず語らずの言及をこめて。するとジョニーは彼女のセックスの意識によって襲われた。彼は彼女とともに、彼女の中にいた。そしてそれは、その日の午後じゅう彼が感じたと思ってきたような、彼女の外にある、抽象的な、霊みたいに宙に漂っているかも知れないものではなくて、具体的な低みにある、現実的なものであって、確認と所有の徴として、彼の手の愛撫を待っていた。そうして彼女は、ジョニーの仕事を巧みな最小限の動きで楽にしてやりながら、薔薇みたいにひらいていった。》
──英軍機の銃撃と橋爆撃、ジョニーはついに町へ下りて旧師、生き残った旧友たちと再会する。こうして徴兵忌避者、離散兵、脱走兵などの若者たちがかなりおおっぴらに町を出歩けば、当然、取締りを呼ぶ。やがて潜伏者たちの両親を憲兵が一斉逮捕する。自然発生的なデモ隊が憲兵隊舎を取り囲み、武力解放する。──
《ついに一人の少年が辛抱しきれなくなって、建物正面を狙って、鉄柵の上を掠めるように手榴弾を投げた。けれどもずっと手前に落ちて、庭の若い桜の木を直撃して赤い暈で包んだから、若木はその刹那、X線に照らしだされたかのように闇のなかに浮かび上がった。すると、隊舎の中二階から警告の機関銃が高めに一連射されて、球技場の遠くの石壁に当たって潰れた。銃弾は真っ白な埃のなかに凍って落ちた。》
──ジョニーの両親も当座の様子見に丘の上の小別荘に潜伏し、ジョニーは決然と出てゆく。
《最も高い丘々、その不動さにおいてできるかぎり彼を助けてくれるであろう父祖の地に向けて、黒ぐろとした風の渦巻きのなかを、男はその普通の人間の大きさにあるときに何と偉大なのだろうと感じながら、彼は発った。そして発った瞬間に、彼は権限が──死そのものもそれを剥奪することのない──イタリアの真の民衆の名において、あらゆる方法でファシズムに反対し、判決を下し、執行し、軍事的かつ民事的に決定する権限が、おのれに与えられたのを感じた。そんなにも大きな権力は酔わせるものであったけれども、しかしそうした権力を彼ジョニーが正当に行使してゆくという自覚のほうが果てしなく遙かに酔わせるものであった。
そして身体的にも彼はこんなにも男であったことはなかったし、ヘーラクレースのように風と大地を撓めながらゆくのだった。》
──ランゲの丘々を歩きとおすが、パルチザンに出会わない。ついに最も高い丘々の連なるランゲの外れ近くまで来てしまった。そこでジョニーは〈赤い星〉の部隊に合流し、初めての戦闘の洗礼を受ける。やがて掃蕩戦に本腰を入れはじめたナチ・ファシスト軍によってほぼ壊滅的な打撃を受ける。包囲網を脱したジョニーは沢と丘を彷徨い、ようやく〈青〉のパルチザン部隊に合流する。ここで友人たちと出会い、司令官ノルドの信頼をえる。小戦闘では多少の成果を見るが、ファシスト軍をやり過ごしてその帰途の最後の一台を襲う待ち伏せ攻撃では、軍曹を死なせてしまう。ジョニーの隊に残ったあとの兵はほとんどみな少年たちだ。季節は夏から冬へ冬から丘の上の真冬へと移ろう。それでも一時は英軍のパラシュート投下による物資補給を受けて、故郷の町アルバを北イタリアで初めて解放するが、二十三日間しか持たない。
秋から急速に冬の忍び寄る長雨のなかで、パルチザンの部隊は次々に丘々に撤退する。ジョニーの隊は川岸を守り、次いで農場の堀を守り、最後には塔を守って死闘を続けたのだが、……。まさに《アルバは一九四四年十月十日に二千人で奪取し、十一月二日に二百人で失った》のだった。
やがて英軍の無謀な白昼のパラシュート投下を機にドイツ軍の大掃蕩作戦が開始され、砲撃が大地を揺るがし、丘の上の村々は焼かれ、丘々に黒い煙が立ちのぼる。小広場に集められた穀物は泥濘にぶちまけられ、輜重車の車輪で泥のなかに鋤きこまれる──逃げたパルチザンと村人がたとえ生き残ってもこの冬を越せないように。
総崩れになったパルチザン部隊。ターナロ川、ベルボ川、ボールミダ川の間を、谷間の沢から丘の斜面、その頂から、中腹、また沢へと、ナチ・ファシスト軍の人間狩りを逃れて彷徨する。
何度も死地を逃れてたった一人生き残ったジョニーは〈ランガの牛舎〉にたどり着く。そこには死んだはずのエットレとピエッレが彼を待っていた。ランガの女主の婆もいれば、あの狼犬もいた。やがて病身のピエッレは麓の村の許嫁の家に匿われ、喉を患ったエットレのためにジョニーは薬を求めに深い霧のなかを出かける。その留守にファシスト軍の巡邏隊が農場を襲い、エットレとランガの婆を捕らえ、狼犬やすべての家畜、食料もろともアルバに連れ去る。
荒らされた無人の農場でジョニーは真冬を迎える。ジョニーだけではない、いまやランゲのすべての丘々でひとつの丘にひとりのパルチザンしか生き残れなかった。厩で奇妙な圧迫感に目覚めたジョニーが銃を手に転げ出てみると、あたり一面真っ白だった。雪だった。……。ついに突き止めたスパイ、言葉を交わし、撃ち殺すジョニー、エットレと交換するためのファシスト軍の捕虜、クリスマス、戻ってきた老婆、なにがしかを持ち寄る村人たち、ついに脱出してきた狼犬、……物語はなおも続く。
《ジョニーはますます腹を立てていた。あの赤い星はみな、初めのうちこそ数人の鳥打ち帽や鉄兜だけの特権だったのに、いまでは誰もが、大多数は義務みたいに赤い星を散りばめていた。しかもみなが笑みもなく、とはいえ苦情もいわずに赤い星を縫いつけていた。ファシストの斧に棒の権標に対するに、最も自然で申し分ない旗標と釣合い重りになるのだから、と。可笑しいのは赤い星の唯一の、あるいは最大の供給源はここいら一帯の村々の幼稚園のシスターたちだということだった。彼女たちはなにか悪感情と同時になにか慈愛深い入念さをこめて赤い星を製造した。だからシスターへの支払いを誤魔化したりひき延ばしたりは考えられないなら、彼女たちは恐ろしい債権者だと、マーリオ准尉が頷いた。》
《……。平和を愛するあまり心臓が彼のなかで嗚咽した、だから、二叉路で起こったことを彼は少ししか、あるいはまるっきり、見なかった。彼は夢のなかで見た、黄色い流線型の染みが右手から飛びかかってくるのを。瞬間、目をつぶり、トラックの横っ腹にそれが激突する音を聞いた。目をまた開くと、おのれの胸と平行にビオーンドの軽機関銃の鈍く光る銃身が、相手の車の粉々に砕けたフロントガラスに狙いを定めていて、男たちはすでに後ろからどすどすと地面に跳び下りていた。……。》
──この突発事故で捕らえたドイツ軍少佐ゆえに、ドイツ軍の大規模な攻勢を呼ぶ。
『パルチザン・ジョニー』〔第二の遺稿〕の大きな特徴はその構成にある。
1.最初の冬(最終章の直前の章)/ 2.最初の冬(最終章)
3.夏3 / 4.夏4 / 5.夏5
6.町1 / 7.町2 / 8.町3
9.町4
10.忍び寄る冬1 / 11.忍び寄る冬2 / 12.忍び寄る冬3
13.忍び寄る冬4 / 14.忍び寄る冬5 / 15.忍び寄る冬6
16.冬1 / 17.冬2 / 18.冬3
19.冬4 / 20.冬5 / 21.冬6
22.冬7 / 23.冬8 / 24. 終り1
──全二十四章二七七ページである。
夏が終われば、パルチザンの暮らしに秋はない、ただ長い忍び寄る冬だけがある、そして冬。数えてみると、最初の冬二、忍び寄る冬六、冬八と、冬だけで十六章、本書の大半を占める季節は冬である。フェノッリオがこの作品においていかに冬を重視していたかが、またパルチザンにとっていかに冬が大敵であったかがわかる。春もない。春は勝利の日と同じだけ遠い。
パルチザン・ジョニー 〔第一の遺稿〕
[Ⅰ]
第十六章
ジョニーは丘の上の小別荘の窓からおのれの町を観察していた。ドイツ軍の七重の網をかい潜って、はるか遠くの悲劇の都ローマから、思いがけなく不意に舞い戻ったのち、その彼を潜伏させるために家族がこの別荘を急遽借りたのだった。地元でのあの九月八日の光景、一個連隊まるごと兵営が、乗員不足の not entirely manned たった二台のドイツ軍装甲車ごときに降伏したさまと、封印貨車でドイツへ流刑されるありさまを目の当たりにして、誰もが、家族も取り巻き連 hangers-on も、ジョニーが戻ってくることはないと思い込んでしまった。最良の場合でも、イタリア中部のどんな駅からでも出発したああした何本もの同じ封印貨車の一輌に詰め込まれていまごろはドイツに向かっていることだろう、と思われた。ジョニーのまわりにはいつも漠とした、理由のない、とはいえ気に入った好ましい pleased and pleasing 評判、頭を雲のなかに突っ込んでいて、文学ばかりで現実感覚がない、非実践的だ、との名声が漂っていた……ところがジョニーはごく朝早くに家に闖入してきて、母親の気絶と父親の彫刻と化した驚愕のあいだを汚いつむじ風みたいにすり抜けた。目の回るような速さで裸になるとその最良の私服(あの昔っからのビクーニャ織の服)に着替えて、また見出したあのスマートななりで階段を昇り降りしては、身奇麗にした。その間も家族は彼のすぐ後を追うばかりだった。町には住めなかった。町はやっと免れたばかりのドイツ行きの控えの間だった。町にはグラツィアーニの御大層な布告がどの街角にも貼り出されていたし、二、三日前にはフランス派遣軍団の離散兵たちの奔流が通り過ぎたばかりだった。町にはドイツ軍の分隊が町一番のホテルに陣取っていたし、アスティやトリーノから小型軍用車に乗ったドイツ兵の来襲がひっきりなしにあって、人けもなく、灰色の、裏切りの臭いのする通りという通りに恐ろしい鋭い音を漲らせていた。離散兵であるうえにグラツィアーニ布告の対象である若者にとって町は絶対的に住めなかった。父親がひとっ走りして丘の上の小別荘の所有者の許可をえてくる時間と、彼がその書架から闇雲に半ダースほどの本を鷲掴みにして、帰還した友だちの消息を尋ねる時間、それに母親が彼の後ろ姿に向かって叫ぶ時間。「食べて眠るんだよ、眠って食べるんだよ、そして悪い考えは決して起こすんじゃないよ、」そしてやがて丘の上で、潜伏生活。
一週間というもの彼はよく食べ、さらによく寝て、『天路歴程』、マーローの悲劇、ブラウニングの詩篇を精力的に読んだが、気の晴れることはなく、全般に悪化の、激しやすい感覚が募るばかりだった。そして彼は内的なリフレッシュとして実によく風景を眺めた(ときには十五分間以上ものあいだただ一幅の景色に見入っていた)。そしてそこから人間の徴や気配を取り除こうと努めてみた。間の抜けた気取った別荘だったが、秋の恋のお仕着せを着た山端に立っていて、秋雨の走りを集めて荘厳に濁った、低い両岸のあいだを不変の鉛の溶岩みたいに流れ下る、町の出口の川の流れを眼下に見おろしていた。夜の静けさのなかで In the stillness of night 、川音はかすかな唸りとなって山の端づたいに別荘の窓辺まで、待ち伏せするかのように這い上がってきた。けれどもジョニーは、辺りの丘々とともに彼を育てあげたあの川を愛していた。丘という丘が辺りにのしかかってきて、秋めいてますます霞んだ flou 辺り一帯を、ゆっくりと忍び寄る靄の音楽的に巻く渦のなかに押し込める、ときには丘という丘そのものが靄にほかならなかった。傷んだ太陽の下で不健全に煌めいている川沿いの平地と町の上に、どの丘ものしかかってきた。大伽藍と兵営の大厦高楼が、あるは陽に灼かれ、あるは煙って、目立っていたけれども、じっと観察を続けるジョニーの目には二つながらどちらも正気離れした遺物に映ったことだった。
秋の日々は、秋ではあっても、耐えられないくらいに長くて、昼間寝て潰したかに思えた時間は早くも夜ごとの不眠となって跳ね返ってきて、いまでは彼は夜通しタバコを燻らせながら、足を組んで、本ばかり読みふけって過ごした。だから朝という朝は病んで悪夢をもたらした So mornings were diseased and nightmared 。死活の地、生まれ故郷をまた見出したという感慨が薄らいでみれば、風景はいまでは彼の吐き気を誘った。文学は彼の吐き気を誘った。食べ物と睡眠のあの過多 surfeit が軍隊生活の何もかもを彼から拭い去るにつれて、週末には彼は機関銃のいったいどの部分から分解し始めるのか、もう分からなくなった。ほんの一週間前には目隠ししてもできたというのに。そしてそれはまずいことだった。何かが、内から刺すように凍らせる icefying 、そいつはまずいことだと彼は気がついていた。武器は彼の生活のなかにまた舞い戻ってくるかもしれなかった、ひょっとしたらそこの窓からも、ありとある不屈の決意と反対の誓約にも拘らず。
ラジオが要ることを、鋭く、病的なくらいに彼は感じたが、この点に関して家族は少なくとも今のところはどうしようもなかった。キャンディダスのあの独特の訛りでまくしたてる gluttoning on his own accent あの声が聴きたくてたまらなくなった。ほとんど毎日、父親が登ってきて、何やかや必要なものを書き留めて for several requests-annotation 、地元や全国のニュース、ひそひそ話やラジオ放送で知ったことを彼に告げた。こうしてジョニーは、救いようもなく反叙述的で不明瞭な父親の声を通して、スコルツェニーの仕業でグラン・サッソの山塊からムッソリーニが救出されたこと(パーリオの旗みたいに奴をもぎとっておきながら、土壇場で in extremis 撃ち殺すこともできなければ、安全に隠しておくこともできなかった)、ドイツでファシスト国民政府が樹立されたこと、ドイツ軍から返されたローマ放送でパヴォリーニがなした声明のこと(ジョニーはつねになくありありとあの高官の異邦人面を見て、冷え冷えと即座にその物理的な抹殺を想った)、そしてケファリニア島での虐殺のことを知った。町では、何事もない、だからこそ人びとはますます互いに信用しなくなっているし、いっそうおのれのうちに閉じ籠もって、もう病的だね、と父親が物語る。「治安には誰があたっているの?」「憲兵が服務しているけど、見るからに渋々とだし、最近は実に冷やかなものだよ。」軍の崩壊でほかに帰りついた者は?たとえば配属先に運がなかった者たちでは、シッコはフランスから、フランキはスポレートから、ブレンネロからは某が帰ったよ…… 《ロシアは言うまでもなく、ギリシアやユーゴスラヴィアで軍崩壊に見舞われた兵隊たちのことを思うがいい……》ジェジェは死んだよ。どうして、知らずにいれる?モンテネグロから戦死公報が届いた、もう夏のことさ。家族は戦死だといっているが、口に銜えて撃って、自殺したんだよ、みな知っていることだ。こうして、ジェジェは逝った。奇妙な獣医、夢見る少年の道 dream-boyness を歩みだした男、ジェジェの後には、もう誰ひとりいないことだろう、両手を鴎の翼みたいに広げて走る男は。
従兄弟のルチアーノはミラーノから幸運にも帰ってきていた。ドイツ軍の自動車縦隊が驀進する自動車専用道路と平行して、ヴェルチェッリの水田地帯の奥ふかく deep を夜だけ歩きとおしてきたのだ。いまは家にいる、そうとも、ジョニーが天辺で暮らしているこの同じ丘の山裾の、城門外の自分の家に。父親が帰っていった。「いいか、おまえはどんな事があってもこの上から動いてはならないぞ。こらえるんだ。おまえがおまえのことを考えたくないのなら、わたしらのことを、おまえの母さんのことを考えろ。この数日間というもの彼女は苦しみ抜いてるぞ she agonized these last days 。」
だがその同じ日の晩には、暗くなって好都合な時刻に、泥濘だらけの丘を突っ切って、ジョニーは従兄弟に会いにゆくことにした。夢魔に苛まれる孤独と、呵責ない無音の雨の下で一握りの砂みたいに溶けてゆく湿った闇のなかの土というきまった眺めには、もう耐えられなかった。闇雲に歩いた。しかし、どうして男たちは抗しがたくも失われた立場をこんなふうに取り戻して、やつらの戒厳令の下に命じ、罰し、殺し、もがく、そうした一切の能力を取り戻すことができたのだろう、しかもわずかな、笑うべき武器と、しかも膨大な数の群衆と、大地の果てしない広がりをもって?
従兄弟はまったく変わっていなかった。ただ目立つ禿げあがった額がすでに広かった額をいっそう広々とさせて……軍隊の習慣が再びジョニーを掴まえて、士官服姿の従兄弟を想像させようとしたが、そんな姿は想い描けなかった。それどころか、反対に、皮肉にも正反対の、自然児の、腿の辺りまで黒い長靴下を穿いた、自動的に、非論理的にシルヴィオ・ペッリコを彷彿とさせる幼い少年がまざまざと見えてしまった。
「ぼくは九月八日には中央駅で任務についていたんだが、小型軍用車で乗りつけた最初の二人のドイツ兵はわれわれが血祭に上げた。」と従兄弟が語った。「ごく簡単なことだった。ミラーノの駅を征服しに二人で現われるとは、信じがたい厚かましさだ。そのお灸みたいなものだった。ふつうの勤め人がわれわれに味方して、そのなかにひとりの弁護士がいた。ほんとうに、〈あの五日間〉むきの酔わせる、夢みたいな雰囲気だった。そしていいかい、あの弁護士は若者どころか、小柄な老人だったよ、《武器は市民に譲るべし Cedant togae armis 》とのたまいながらぼくの指揮下に入って、彼は個人的に撃っていた。だから何もかもぼくには謝肉祭のことに思えたよ。やがて振り返ると、おまえのまわりには誰もいなくなった。ドイツ兵はますます数を増しているというのに、だ、ますます大勢になって。──真新しい軍服を脱ぎ捨てねばならないのは残念なことだったよ。生命と引き替えに脱ぎ捨てたんだ。〈軍人互助会〉には大した出費だったのにね。」
叔母はラジオの選局つまみをいじくっていた。ジョニーははるか昔に彼らがこのラジオを買ったときのことを思い出した。叔父が音楽狂だったから、マスカーニの『皇帝ネロ』初演を聴くためにわざわざこのラジオを買い、叔父夫婦はこの秘教的な器械のまえで鑑賞の夕べを催して親類一同を招いたのだった。
紛れもなく肉のせいでぶくぶくとゼリー男 jelly みたいな叔父は、恐れて金切り声をあげ、音量つまみを調節している妻を手振りで脅し hand-menaced 、予測しがたい裏声で尋ねた。ロンドン放送を聴いているところをファシストの巡邏隊に踏みこまれて逮捕され、幾夜も秘密の隔離牢で氷みたいな水のなかに裸足で立ってねばならなかった某みたいな最期をおまえも遂げたいのか。ジョニーはロンドン放送が聞けるものと思っていたが、聞こえてきたのは違う放送開始のテーマソングで、やがてこちらヴォイス・オヴ・アメリカとアナウンスがあった。従兄弟のルチアーノが明かりの暈のすぐ外でユーモラスににたりと笑い grinned humorously 、叔母があからさまに言った。「あたしたちはヴォイス・オヴ・アメリカのほうが好きなのよ。イギリス人にはうんざり、ヨーロッパのあたしたちみなと同じ大豚よ。アメリカ人は別ね、ちがう?ずっときれいだわ。」
アメリカ人の話し手 speaker は美しい声の持ち主で、その正確な鼻音 twang の振動は魅力的だったが、ニュースの中身は彼の声を下回っていた were under his voice 。ローマへの快進撃を予想させて開始されたサレルノ大上陸は海岸=山地の最初の突出部で砂を被ってしまった。家で戦況を逐一追っていたルチアーノが言った。連合軍はすんでのところでまた海に追い落とされるところだった。ともあれいまはなんとまあ陣地戦に明け暮れている始末だ。そこでジョニーはおのれに言った。サヴォーナへ向かう途中で見かけたあの師団が大いに奮戦したのだろう。むだなことなのに、見るからに、むざとは引き下がらぬやからだった。遠い記憶が彼らを肥大させて、悪臭によって清められた巨人兵士の群れとなるのだった。
フィオレッロ・ラグアルディアのコメントが続いた。「こやつは誰だい?」「ニューヨーク市長よ、ねえ、」とすかさず叔母が教えた。ヴォイス・オヴ・アメリカなしでは彼女はもう生きてゆけなかった。「イタリア人なのよ、移民の、あたしたちと同世代よ。彼がニューヨーク市長になるまでの苦難の道のりを思ってもみてよ!」ラグアルディアの声が炸裂した。シチーリア英語のしまりのない抑揚、黒ぐろとしたシチーリア人の汗と苦いアングロサクソンの消毒との虫の好かない混血が、ジョニーには耐えがたかった。言葉という言葉の皮を剥きながら、起伏の多い激しさで話していたから、そうして剥かれた皮の切れ端が干からび千切れてラジオのグリッドに跳ね返るかのようだった。その昔の同郷人にたいする侮蔑によってか、それともドイツ人にたいする根深い憎しみによってかは分からないが鼓吹された、高すぎる pitched 声だった。この男にとっては何もかもがたやすく、即刻の、決定的、致命的なことだった。「攻-撃しろ、やつらを攻-撃しろ!棍-棒と匕-首でやつらを攻-撃しろ!」ジョニーと従兄弟は憤懣と蔑みのあまりぱっと立った。彼らも叫び返した。「棍-棒と匕-首でやつらを攻撃しろ!だが、やつはゲーリングの戦車 panzer を見たことがないんだ!こんなやつがニューヨーク市長だなんて……!サレルノのアメリカ軍は棍棒と匕首どころではない装備なのに、一歩も前進しやしない。低能め!汚い低能め!田舎っぺ!」アメリカと、ラグアルディアも含めてアメリカ的なものへの留保のない、殉教者的な、ひっそりと攻撃的な感嘆に膨れあがって、無言で硬直しながら、叔母が立ち上がった。やがて気持ちが鎮まるとラジオの前に坐りなおして、ラグアルディアの最後の喚き声に耳を傾けてそれらをときほぐし、大事に溜め込んでいた。一方、叔父は、そのゼラチンの巨体を悉く震わせながら、重要なことはとうに言われて聞かれたのだから、ラジオを消せと叔母にヒスしていた。彼女は亭主は気にかけずに、激昂した小児のひゅーひゅーいう息づかいの大男の汗だくの狂乱に背を向けて、音楽の終わる最後の調べが消えゆくところでラジオのつまみを回した。ジョニーと従兄弟は果てしない怒りを胸に狭苦しい台所を往きつ戻りつしていたが、批判的で慈愛のこもった叔母の眼差しに掴まってしまった。明かりのなかに衰えた銀髪の頭を擡げて、彼女が言った。「いまどきあんたたちの年頃の息子を持つことは恐ろしいことだわ。」ジョニーは痛いところを突かれて touche' 、おのれに言った。両親のことを考えはじめねばならない、もっと彼らと彼らの魂の世話をせねば、親父もすっかり老けこんでしまったことだし。
暇乞いをした。安全な最初の晩にまた来いとルチアーノが言って、叔母がその不敵な飾らなさで頷いたが、叔父は口ごもりながら冷淡に挨拶した。「ルチアーノ、きみがぼくのところに来いよ。午後に……」とジョニーが耳うちしたのを、老人が聞きつけて、一言ずつ言葉を切って spelling 言った。「ルチアーノは動かない。もう決して動かないだろう。」それでも従兄弟は、木の下闇 frappe` の濃い丘の坂道を途中まで送ろうと外に出た。そして彼らは一言も話さなかった。
初秋は臨終の苦悶に入ったかに見えた。九月末に三十歳の自然は月経閉止の発作 fits に身を捩り、黒ぐろとした悲しみが自然の色を盗まれた丘々に垂直に落ちてきて、彼の酷使された surmenage`s 目には手品の一組のトランプみたいに殖えてゆくように映る陰気な、遠くのポプラ林のあいだを、不実な泥土の低い両岸を舐めて流れる、溺れやすい川の鉛みたいに重い泥のなかに、息を殺すほどの残忍さが漂った。そして季節外れの風が、長い夜々にはっきりと悪魔的に、不自然な速度と力で、しばしば吹き荒れた。
窓からジョニーは目を凝らして、あの丘から町へと高度を落としながら、実に明瞭な町境の最初の砂利道まで、真っ直ぐに伸びている灰色のアスファルト道を仔細に眺めていた。目の届くかぎり、行き交う人の動きは、疫病みたいに、疎らになって、そのわずかになった動きがかなり速くなって、通行人はリドリーニの映画の登場人物たちみたいに、喜劇的に加速されているように見えた。そしてその滑稽さのなかには、後ろぐらい苦悶の、毒のある切っ先が隠されていた。
小別荘へと登ってくる父親を、遠距離から、はっきりと彼は見た。まだ町外れのアスファルト道を歩むその姿の疲労感、喜びのなさ non-joy にジョニーは衝撃を受けた。目を遮るもののないその道のりのあいだずうっと彼は父親を目で追っていた。老いた父親への愛と憐れみで彼の身体のなかで心臓が溶けだしていた…… 《いまどきあんたたちの年頃の息子を持つことは恐ろしいことだわ》。父親の足取りのどの一歩も苦悩と断念を語りかけてきた。そして遠く高みで父を待つ息子は感じていた。どんなにしても決して父に報いることはできないだろう。たとえ百分の一でも、たとえおのれが生きつづけたとしても。父に報いるたった一つの方法は、父が彼を愛したのと同じように彼もおのれの息子を愛することであったろう、といまは彼は考えていた。父親にはそれで何を報いるわけでもないが、人生の台帳のなかではそれで帳尻が合うのだろう。父親を迎えるときには、そういう父に相応しいように、優しく迎えようという意志と意図とで彼は震えていた。だが、父親が小別荘の最初の小階段に足を踏み入れてその姿が見えなくなると、そのときジョニーは自動的に、にたりと笑いの漏れる grinning 渇望をこめて、親父めタバコを持ってきたかな、と考えた。
あった。が、いつもよりは一日分の本数が減っている。それに新聞ひと束。ジョニーは発作的にタバコに火をつけて、一紙を拡げた。事態は悪化していた。ファシズムはゆっくりとだが着実に力を盛り返し、かつて見られなかったくらいの有機的統一ぶりだった。すべての新聞が再び歩調を揃えだして、政治的空白期間に咲いた短命な編集長たちを一掃していた。自由や、ためになる悲劇や、外国への再接近や、無視できない西欧的価値について社説を書いた主幹はみな掃きだされていた。再編成された小部隊の一枚の写真、王への誓約を棄ててドイツ軍の醜悪な銭箱 foederis arca に盲従した、グラツィアーニの兵士たちだ。スポーティーで、極めて能率的で、故王国軍の同じような部隊よりも果てしなく効率的で、最新の装備で、ドイツ軍ふうgermanlike で、みな溢れるような信頼の笑顔で、あからさまに、断乎として兄弟殺しの、蛆虫の湧き出るような視覚効果をもって映っている。しかし絶品はローマ進軍当時の古臭いドミノ服に超モダンな武器を吊るした、エットレ・ムーティ軍団兵士たちの写真だった。錫メッキみたいな頭蓋骨の刺繍入りの、スキーヤー用の黒いセーターの肩にパラベルム銃を吊るしていた。だが、検討してみると、年寄りと子供、古参兵と新兵にマスコットたちから成る、不均衡な部隊だった。
ジョニーは新聞から目を上げて父親を見た。安物 cheap の籐椅子のうえに何か控え目な落着きのなさで腰を下ろし、急速に朽ちゆく rapidly-decaying 午後の程よい明かりのなかでその頭が軽く振動していた。苦悩と、絶望と、悲観的に見ることが、破滅した、アステカの男みたいな外見を父親に帯びさせていた。浮かびでた初歩的な感情が、姿勢における何世紀もの進歩を無にして、すべてを非常に古い時代の図像性に凍結してしまっているのだ、とジョニーは突きとめた。
また新聞に、別の一紙に、没頭した。ファッショは大都会を再び掌握していた。そこから数多の小都市や田舎に窒息させる油みたいに再び拡がってゆくのだろう。全紙がとりわけ強調していたのは、労働者が布告にしたがって、全員が仕事を再開し、規則的に就労しているということだった。それゆえやつらは再編しつつあった。やつらはなかなかたやすくは死なないだろう。そしてこうした再編成と決定的な死への抵抗という眺望のなかで、スコルツェニーによって救出された〈統領〉の牛みたいな、血の気の引いた顔は、ジョニーはあまり見なかった。むしろ、パヴォリーニとその多くの同類たちの顔が、一度も見たことはないのに、銃撃しうる陰画の的として、楽々と想像できるのだった。
被弾した鳥たちが苦しみながら滑空するように、新聞が床に滑り落ちるのにまかせた。「町で新しいことは?」父親はすぐに気を取り戻して、語るという労苦と気高さに取り組んだ。何ひとつ彼に印象深かったことはなかったが、それでも話しだすと気が楽になった。「何も、ドイツ兵とファシストの車が二台、ホテルに着いた、らしい、ことくらいかな。いつだが晩に叔父さんの家までおまえが下っていったというのはほんとかい?実にいけないことをしたものだ。おまえは動いてはならないんだよ。辛抱がいるけど、おまえは動いてはならない。わたしらのことを考えろ、家ではおまえがこの上にいると思うから、心配のなかにも少しは安心していられるのに、おまえときたら……」「ぼくはここにいると気が狂いそうだ!」「なんだって?」と激しやすい苦悩のなかで父親が叫んだ。「ぼくはここにいると気が狂いそうだ!ここでひとりっきりだなんて!それにほんの一分くらい町へ下りたって、いったい何が危険なんだ。」「危険じゃないというのか?おまえは気狂いだ。いままでは何事もなかっただけのことだ!だが、いくらでも悪いことはこれから起こって、わたしらの目から涙の乾くいとまとてなくなることだろう。それにそんなに下りたがって、おまえは、町ではいったいどんな暮らしをしていると思うんだ?町ではわたしらは鼠みたいに暮らして、もう友だちなんていないも同然だし、誰ももう他人を信用しない。わたしらはもう服務中の憲兵だって信用しないし、彼らに出会うと震えだす始末だ。そうして話をすれば、いいか、決まってスパイのことがわたしらの話題になる。ファシストどもがまた頭を擡げたんだ。知ってるかい、ファッショ支部書記の息子とディカットの息子がファシストの新しい学校へ士官学校生徒になりにいったのを?知ってるかい、弁護士と息子が黒シャツ旅団に志願したのを?」「この上にいてどうして知るわけがあるのさ?」しかし、物理的な抹殺という固定観念がたちまち彼を捉えて、彼を雷撃した。あの同国人、いや同郷人たちをどのように処刑するのか、彼はありありと見た。そうまさに、あの悪党どもの党派の軍服を着た彼らを処刑するのだ。彼らは英軍と戦うためにその軍服を着て武器を取ったのではない。彼らはほかのイタリア人、ぼくらと戦うことを決意してそのために武装したのだ。いいだろう、イタリア人は彼らをみな殺してしまうことだろう。イタリア人の手にかかるお蔭で、彼らが英軍の鉛玉用の肉になることはないだろう……「ぼくの先生たちを見かけた?ぼくに会いに来たかしら?」「もう先生方は見かけないが、きっといらっしゃるよ。ほんとうをいうと、あまり嬉しいことではないのだが、おまえがコチート先生に会うのは。彼は無用心にしゃべりすぎるし、それに彼が共産主義者なのは誰もが知っていることだ。」コチートが共産主義者だって?共産主義者?しかし、共産主義者であることは正確には何を意味して、何を要するのだろう?ジョニーはそのことについて何も知らなかった、ロシアと密接な関係があるということ以外には。 「もういけば、遅くなるよ」、そしてジョニーは、町の屋根という屋根のうえの照り返しをことごとく蝋燭消しみたいに消しながら、平地に迫ってゆく不自然な夕闇に、目を凝らしていた。丘は、みな菫色のなかに難破していた。
「そうだな、だけど約束しておくれ、わたしとおまえの母さんに、おまえはもう決してここから動かない、と。もしも遠出がしたいのなら、おまえの丘があるじゃないか、頃合の時間にな。」
ジョニーは約束して、黄昏のなかに流れ去る si floueva 小径を、生来の猫背をなお丸めながら、下ってゆく父親を見守った。
不意の冷気に屋内に戻った。彼はおのれの回りに、そしておのれの裡に、ある心許なさを、ある惨めさを感じていた。そうした心許なさ、惨めさゆえに、すっかり彼はやせ細り、虚弱になって、正常な人間の次元と比べると恐ろしいくらいに悪い状態に陥った、と感じた。それはすべてをもつれさせ、すべてを危機の絶頂へと追いやるに到った、にわかの、騒がしい、性的刺激であった。そのためにも町へ下らねばならなかった。流行遅れ de`mode`s の埃っぽい小サロンでドイツ兵やファシストと出くわす危険を冒しても。それは医療的な蒼ざめたわびしさのなかで汚らわしいが拒絶できないことに彼には思えた。そのことが彼の人間としての惨めさを膨れあがらせ、しかつめらしい無の詰まった唾棄すべき革袋と、おのれ自身を思わせるのだった。
夕べと夜の予知と予測に彼は沈んだ。悪癖ではないが怒ったようにタバコを吸えばもともと少ないタバコの彼の糧秣はたちまち底を突いてしまうことだろう。それにリハビリテーション中の睡眠過多による不眠症、狂った渦巻く思考、強靱な歯を剥きだしの苛烈さできっとまた頭を擡げるに違いない性的刺激……音節に分けて言うかのように、彼はおのれ自身に荒々しく言った。
「兵隊だったころを、おまえは覚えているか?おまえは孤独の欠如に泣いて、共同生活にしばしば吐き気を催していたではないか。密集隊形を取らされたときや、フラッリアが機関銃の仕組をおまえの頭に詰め込んだときに、夢みてた夢をおまえは覚えているか?おまえはひとりっきりになって無拘束 disengage` で、川と丘の眺めのひらけた、およそこのような部屋で、何か英文学の古典をこころゆくまで翻訳することを夢見ていたではないか。」いまはこうした前提と可能性のすべてが整って、武器も共同生活の男たちも遠くに、丘々と、川の向こうに、霧に覆われた、身震いするような、幻の大都会にいた……
握った手のなかに、しかし奇蹟みたいに、マーローの悲劇の一巻があった。強いられた、しかめ面の決意を秘めて腰を下ろし、本を開いて名高い悲劇『マルタ島のユダヤ人』の最初のページを押し延ばした。彼はそれを翻訳するだろう。その晩は翻訳だけに費やされることだろう。視覚的にではなくて、ペンを用いて、初歩的で綿密できつくなぞった書体で、救いの切株みたいな書き方で、紙に書くことだろう。
世間はマキアヴェッリが死んだと考えようと
彼の精神はアルプスの彼方に渡っただけのこと。
そして、ギーズ亡きいま……
足を蹴って、惨めさと不可能亊の炎の上に高く立ち、あの彼の惨めさの虱という虱をページのあいだに押しつぶすかのようにぱちんと本を固く閉ざした。上の階に昇って、吹く風の下の葉叢の水棲の振動に、ピエモーンテの遅い夕闇に、開いた窓を隙間を残して閉じた。即座にしかし儚く宥める、冷たいシーツに横たわり、たちまち睡りこんで朝遅くに目が覚めることに、まるでそれが最大の奇蹟ででもあるかのように、望みをかけた。「ぼくは女が欲しい、ぼくには女の子が必要だ I want a woman, I need a girl,」と、彼は天井の彼方にまで強請した he pleaded beyond the ceiling が、おのれの切願を清めて請け合うかのように言い 添えた。「ぼくが欲しいのは彼女の若々しい無味の吐息だけなのに I want but to get her young tasteless breathing!」
第十六章終り
[Ⅱ]
第十七章
彼はそんなにも間近にまじまじと丘の少女を見つめていたから、その眸の黄金のうすく散った碧玉を顕微鏡を覗くみたいに見ることができたのに、それでも彼女の声は幾重ものフィルターをとおしたかのように彼に届いた。「どう、よかった?」彼女が吃った she stammered,「果てしなく。あなた……あなたってすっごく達者なのねえ。」しかしやがて彼は身を起こすと、叫んだ。「でもぼくはおのれが男だと感じない!」彼女は目を瞠った goggled 。「あなた、自分を傷つけてるわ……」なのになおもジョニーは、少女の言葉には聾で無関心に、いっそう大声で、くり返した。「ぼくはおのれが男だと感じない!」
鉄道の二つのトンネルのあいだの峠をとおって、黄色の痛ましい大饗宴のなかを、彼らは丘から川辺へと下ってきた。歩くのが楽で妨げられない unhindered ときにはジョニーはきまって彼女に先頭をゆずって後ろに回り、ゆたかなくせに痩せた背中にじっと重たく動かないたった一本に纏めたお下げ髪、大きなお下げを注視した。味気ない髪 tastelles hair 、そうして矯めつ眇めするうちに by that vision 、《鳶色 auburn 》という言葉によって英国人たちが何を了解していたかを、ジョニーが悟った色の髪だった。少女はジョニーよりもほんのわずかに若いだけだったのに、魅惑され、引き留められた青春の徴としてあの大きなお下げ髪をぶらさげていた。ゆく秋の最後の太陽が照っていて、延べ板みたいな川面から青黒い強烈な光を引きだしながら、威厳をそなえた年寄りの髪の毛のうえみたいにポプラ林のうえにたゆたっていた。目には見えない一羽の青鷺の散発的な鳴き声が聞こえた。そして水面全体が静けさに満たされていて、ときおり高みの岩場のあいだから白土が崩れて一気に滑り落ちてきてその水音が響くだけだった。彼女が言った。「あたしが女でなかったなら、あたしは女になりたい。その次もまた女に。その次の次もまた女に。でもそれがだめだったら、あたしは青鷺になりたい。」
それから歌った。「あたしがあなたといる瞬間はいま終わろうとしている My moment with you is now ending, 」と、理由はないのに言わず語らずの言及をこめて。するとジョニーは彼女のセックスの意識によって襲われた。彼は彼女とともに、彼女の中にいた。そしてそれは、その日の午後じゅう彼が感じたと思ってきたような、彼女の外にある、抽象的な、霊みたいに宙に漂っているかもしれないものではなくて、具体的な低みにある、現実的なものであって、確認と所有の徴として、彼の手の愛撫を待っていた。そうして彼女は、ジョニーの仕事を巧みな最小限の動きで楽にしてやりながら、薔薇みたいにひらいていった disclosed like a rose 。
いまは何もかもが黙りこみ、青鷺も啼かずに、高い岩場の壁龕から崩れ落ちる白土が凍りついてしまえば、あとはただ流れる水音だけが息を吹き返して、水の正体は溜め息ででもあるかのように、溜め息を漏らしていた。けれども彼らの無防備の肉体には、何の装いもなかった。そしてジョニーはゆっくりと、さらに痛ましく繰り返した。「ぼくはおのれが男だと感じない!」「家に戻りましょう」と、彼女が言った。「丘に。戻って、《カヴァリン・ザ・ウォタフラント Covering the Waterfront 》をかけましょう。」
しかし彼らが膝を起こす間もなかった。
飛行機の轟音が弱音器をつけた巨大な交響曲の自然の構成分子みたいにやって来て、たちまち増大した。自ら抉りだし、異化して、その機械的な本性に勝ち誇りながら boasted 、川向こうの丘々を掠めて、気違いじみて低空に、二機の飛行機が(英軍か?米軍か?)くっきりと現れた。橋めがけて一直線に急降下してき、それから橋が手つかずで重要なのを確認しおえたかのようにまた急上昇して、川沿いに超低空飛行して、岩場を飛び越えるために彼らの真上で再び高度をあげた。だが、その急上昇の下でさえ、木々の葉叢と草地の悉くと、彼ら二人は震えあがった。彼女は膝立ちして、脅えきった指先で空しく身体を覆った。ジョニーが彼女を小さな土手の陰に引きずり込んで、彼女の裸の肌の残りの箇所に両手を広げた。「戻っては来るが、ぼくらには何ともないさ。橋を狙っているんだから。畜生 Damn'm!」
やつらの轟音が再び響きわたって、岩場から逆落としに下るかのように、川床の垂線上を矢のように飛んでいった。再び枝々が悲鳴をあげながら漣をたて、草地がその盲た従順さのなかでやつらに笞を当てるかのように狂いたった。それから、ジョニーはやつらの尾翼が水面から十メートルのところで、禍々しく橋を狙っているのを見た。やつらは視界をすっきりさせるみたいに機銃を掃射してから爆弾を投下した。一発は橋手前の延べ板みたいな水面に落下し、もう一発は川原に落下して岩石の飛沫 flourish を撒き散らした。が、その直後に橋のうえにクリーム状の埃の二つの球根が開花して、確実な、ぞっとするような傷痕を糊塗するかのように、じっと動かなかった。飛行機はとうに川向こうの丘々のうえを、毒針を刺しおえた蜂みたいに穏やかに軽やかに舞っていたが、いまは早くも底無しの虚空のなかに溶けいってしまった。一方、右岸からは町をあげての悲しみの仰天した叫び声のコーラスがふつふつと沸きあがってきた。覚束ない手つき unsteasy handsで、彼女が服を着おえた。「なにも橋を壊さなくたっていいのに!」と、彼女が言った。しかし見よ、あそこに、なかなか収まりきらない砂塵の裂け目のなかに、六つあるアーチの三番目と四番目が破壊されているのが見てとれた。あの畜生めら Damn them!
十月初旬のある晩、あの約束を、コレラみたいに丘の上に隠れ潜む憂鬱を、破った。彼は暗闇のなかで最も異常で安全なアクセスを選んで、奇襲するみたいに町に下った。町外れに出た途端、黒ぐろとした人影が一様の闇のなかにぬっと立ちはだかった。大男だった。そこでジョニーはポケットから両手を出した。だが、巨人はただ火を求めただけだった。見られないように、また見ないように、小さな焔の暈から顔を背けながら、ジョニーは火を貸した。だからこうして、鉄道の土手際に飛び跳ねる大きな動く包み、最初の寒さに飛び跳ねる女を見てしまった。あの乳臭い無様な染みのために、彼は堪らなく居心地が悪くなったけれど、売春宿の界隈から彼は一散に遠くまで駆けだした。
街中は厳格に人けがなくて、人間に関わるかぎりは厳格に暗くされていた。ただ空の余光だけが敷石から青黒い照り返しを引きだしていた。壁すれすれに歩いていったので、封印された家々からしばしば疲れた声や、押し殺した絶望しきった声が、つねに杖の尖端の金具みたいに神経症的なぶつぶつ声をともなって、溢れでるのが聞こえた。広場へと逃げだしながら、一瞬おのれの家を、なかで何も知らずに信頼しきっている両親を見た。躾けよく聞き分けよく安全な丘に潜むジョニーのために、彼らのなした犠牲のまさしく余沢である彼らだけのひっそりとした夜更かしをせいぜい愉しんでいたのかもしれない making the best enjoying of their own solitary wake 。闇のなかにいまにも崩れ落ちそうなおのれの家の正面を視野からかき消して、良心の呵責の臍の緒を引きちぎるために、彼は一気に歩調を速めた。
使い古しの偽装から滲みでる光の刃によってそれと知れる signalled 、近代的な中央広場に面した、グィードの父親のカッフェをめざした。意図的になおざりにされたかのように、店はさびれきっていた。給仕の数は激減し、ぶどう酒や蒸留酒の棚は数知れぬ、あまりの空隙にうすら笑いを浮かべていた。二組のカップルが、いずれも店先を視野に収めるように陣取って、無口に決然と、まるで掟でもあるかのように、トランプに興じていた。彼の応対にグィードの父親が出て、陰気な顔にもろに非難と叱責のいろを浮かべた。「グィードはあの〈九月八日〉から戻ってきました?」
「七日の日に息子は賜暇をえて、女房と私とで賜暇をなんとか延長してもらったのだよ。だから、八日の日には彼は家にいた。まったく幸運なことだったよ……」「いまはどこにいるんです?」カッフェの店主はその青白い顔じゅうを口の上に窄めた──「丘の上にいるんですね、でもどこです?」「代用コーヒーもらえます?」店主は首を横に振った。悪意でそうしたのではなかった。なるほど、店主は即座に彼を追い払おうとしたが、それは彼の父親とあまりに昵懇だったからだ。
「せめてキオーディ先生を見かけたか、教えてくださいな。」いつもならばキオーディは目抜き通りのホテルで食事して mealed at main hotel 、それからこのカッフェに代用コーヒーを飲みに立ち寄るのだが、あの休戦以来どんな習慣もすっかり変わってしまった。幸い、彼はアルベルゴ・ナッツィオナーレで見つけることができる。旧市街のあそこなら、放射状の非常口がいずれも封建時代からの町の迷路に通じていて、そこからは川の前の野っぱらに抜けられるのだった。ジョニーは新たな目的地に向けて外へ出ながら、悲しい安堵をこめて真夏の神々しく愉快な夜々のことを想った。あのころは彼もほかのみなも、いまでこそ死者、捕虜、潜伏者の男たちも、彼が少年であったころにはまだ少年で、町中を群れて遊びまわり、アン(アルベルゴ・ナッツィオナーレ)の界隈は彼らの主な遊び場 resorts の一つだった。一方、別の世代は同じ世代の女たちと土手や丘の上の粗末な寝床へと出かけていったのだった……歩調よく歩いていって、一向に軍隊の足並 gait の垢が抜けきらずに、町なかを往くのではなくて、地下生活の唸りを発する白蟻の巣の上を往きながら、それでも頭上の物音には発作的なまでに過敏になっている気が彼にはするのだった。
先生はナッツィオナーレの一番奥の小サロンにいたが、そこからは古い馬小舎に通じていて、さらにそこから路地をジグザグに往くと土手に出るのだった。彼の切迫した足音に振り向いたときに、キオーディの眼鏡のレンズを乏しい明かりが異様なくらいに赤く燃えあがらせた。キオーディは独りではなくて、Yと一緒だった。Yは半ば友人で、まったく無口な男だった。兵士で、自動車部隊に服務していた目と鼻の先のアレッサーンドリアから逃げだしてきただけだから、逃亡者の旅としてはありふれていて、報告に一行を費やすにも値しない。長年の平地での生活で矯正した山出しの熊みたいな無骨さで、キオーディが立ち上がった。彼を哲学的に抱擁して、現身の彼と再会してとても嬉しいと述べたから、コミュニケーションの予知は壊れてしまった。彼らは腰を下ろして、キオーディは昂揚した議論のなかで彼がおのれのローマ脱出を彼らに報告するのを禁じた。「話しませんとも」と、ジョニーが言った。「ぼくの幸運への負債をすっかり綺麗に清算するために、ぼくのおごりで飲み明かしましょう。」しかし、彼らは応じなかった、もう飲めるような代物は何もなかったからだった……「きみが死んだら」と、キオーディが言った。「きみのためにはパイドーンの言葉を費やしたことだろう。ハーデースに先駆けて、卓越したるは……」そしてみなは苦く harshly 笑った。
重たく惨めな、たぶん取返しのつかない沈黙がそのあとに続いて、ジョニーは古びて縁の欠けた宣伝用の灰皿に長ったらしく丹念にタバコを押しつぶしながら、幻滅してぞっとしたおのれの思い appalingness を隠した。その間にも眼の端で、毛深すぎる両手に支えられた、弁証法的な知性と哲学的な規律が不自然なほどに迸りでるキオーディの横顔に、しぶとく滞る疲労感を捉えていた。「で……コチートは?」と、しまいにジョニーが尋ねた。
自動車の騒音が外の狭い道を激しく揺り動かして、小サロンの壁を地震みたいに振動させた。三人とも中腰になって、咄嗟に何事か理解しようと口もとをこわばらせて固唾を飲んだ。が、やがて自動車は遠ざかって、いまはただ、たぶんおのれのけたたましさに恐慌を来した、つましいガス発生装置付きトラックのずっと毒気のない傲慢な反響だけになった。
「コチートは来るかもしれないし、来ないかもしれない」と、キオーディが言った。「彼が共産主義者だというのは本当ですか?」「つねにそうだったよ」と、即座に、弁明みたいにキオーディが言った。ボードレールとダヌンツィオだけを良く知っていた、あの高校の先生に、共産主義者的な性格をぴったりと重ね合わせることが、ジョニーにはどうしてもできなかった。そしてYはことのほかこの話題に腹を立てているように見えた。「きみは知っておくべきだな」と、キオーディが重ねて言った。「とうに大学では彼のことをコチートフと呼んでいたくらいだ。」ティトーの共産軍を向こうに回して戦った、ユーゴスラヴィアでの体験がコチートに影響しなかったかどうか、ジョニーは尋ねた。「確かに。それどころか、クロアツィアから賜暇で帰ってきた彼に高校で再会したときに彼が言ったことをわたしは決して忘れないだろう。彼はわたしに叫んだ。“きみはザグレブの高校を見るべきだよ!みな出ている、校長も、先生も、生徒も小使も、みなパルチザンだ!”それから町なかではここにとりわけ彼の連隊の四人の兵隊、つまり四人の共産主義者と足繁く通っていた。そのなかの一人についてはとくに覚えているが、真っ黒な四角い顎髭を生やしたトスカーナ人で、民間人のときには彫刻家だそうだが、思うに芸術家としてよりもモデルとして彼はずっと偉大なのではないかな。可能な時間には、公園の二番目のベンチに、彼らはいつも一緒にいて、ときにはコチートがわたしをも招いたものさ。しかし彼らのことは同志と呼ぶくせに、このわたしはたんに友人という扱いだったな。この概念的な区別には注意しておきたまえ。」
それから小休止があって、その間にもYは、われから進んで癩病に罹った知人を目の前に見るかのように脅えまじりの嫌悪をこめて、虚空にコチートの俤を注視しているように見えた。ところがキオーディのほうは、痛ましい忘我のなかにたちまち真っ逆さまに落ち込んでしまったかに見えたけれども、身震いしてから小サロンを戦かせるくらいの大声で言った。「おお、実に興味深いことがあったっけ!いいかな、彼らは、つまりコチートと四人の兵士はだ、あの七月二十五日に、バドッリオが事態の掌握に失敗することを期待していたのだ。そうとも、そうすればまさにレーニンが公理とした本質的状況が実現するからだ。政府が倒れるときには、民衆が蜂起して権力 imperium を奪取せねばならぬ、とな。」「でもそんなのは空しい期待にすぎなかった」と、とくにおのれ自身に辛辣さをこめて、ジョニーが言った。「ぼくはローマでまさしく治安維持の任務についていてあの七月二十五日の晩ほどに退屈しきったことはなかった。」すると、キオーディはあとは何も言わずに、時計を明かりの本流 mainstream of light のほうに向けて、言った。「コチートはもう来ないな。今夜は彼の夕べではなかったわけだ。わたしたちも立ち去ったほうがよいだろう。」と、関節炎を労るかのように、最初に立ち上がった。「家に帰ったら、小一時間ほどわたしのキルケゴールを読んで、それからはるか彼方の奇蹟的な明日まで眠るとしよう。」ジョニーが思い出して言った。「まだキルケゴールなんですか?」「わが息子よ、キルケゴールは一生かかっても読みきれないよ。」そしてYが。「ぼくなんて生噛りですが、……いまの時節にキルケゴールに耽るのは衛生的なことでしょうか?」専門の知識を授けねばならぬ免れがたさに、キオーディは溜め息をついた。「いいかね、苦悶というのは可能性のカテゴリーなのだよ。それゆえ苦悶は不滅であって、無数の可能性、未来への無数の入口から成っているのだ。なるほど、一方では苦悶はきみをきみの存在へと投げ返すし、きみは苦さを噛みしめることになる。しかし、他方ではそれは必要な《跳躍sprung》であって、つまりは未来への飛躍であるのだよ……」
数日後にsome days after, コチートを見かけた。古いカッフェのアーケードの下にキオーディとかつての生徒たちの輪のなかにいて……代用ersatz食前酒の壜が並んで、頭上には十月の光り輝く太陽があって、何もかも調和がとれて心地好い見せかけの同時性のなかにあった。そしてコチートはやって来るジョニーにその眼鏡を向けた。キオーディと同じく彼も目立つ大きな眼鏡をかけていた。しかしキオーディの場合にはレンズが澄んだガラスのなかに瞳を大きく見せていたのに、コチートのレンズはそれを見る者には視野を濁らせる働きをして、いわくあり気な染みのなかに瞳がぼやけてしまうのだった。彼はますますどっしりしてきて敏捷にもなったようで、その頭は獅子としての丸みと輪郭の魅力allureを帯びていた。彼らは痛いくらいに喜びと力をこめて握手したShook hands with a acheful intensity and pleasure. そしてジョニーは新たな魅力を覚えながら彼を見つめた。軍服姿、僧服姿、とにかく私腹姿ではない彼を見ていた。けれどもコチートは以前と同じようにまた振舞いだした。つまり、騒ぎと共感と、彼を高校での人気者にした知的な皮肉のあの切れ味が彼のなかにはまだ残っていた。するとたちまち、コチートが彼の同僚や生徒たちといるよりもあのかけ離れた四人の兵士たちといるほうが居心地がよいとは、奇妙なことに、腹立たしいくらいのことに、ジョニーには映るのだった。
彼らは旧市街の中央広場に、真っ昼間に、最初のカッフェの小テーブルに居並んでいた。しかも危険が減少していないばかりか、確実に増大していたにも拘らず。大都会ではもうほとんど徴兵忌避者たちは一掃されてしまって、ファシストの各紙がかつての光栄ある兵舎が再興されて光栄ある灰緑色の軍服が大量に再び出現したと吹聴していたにも拘らず。それにトスカーナからは、隠れ家を暴かれたある徴兵忌避者が二十四時間以内に銃殺されたとの知らせが雷撃みたいに伝わったにも拘らず。そのニュースはイタリアじゅうに巨大な黒雲のようにとどまっていた。いまでは誰もが、ファシストが何をする用意があるのかを理解したし、そのことは掟の侵害breach of codeにも似て醜悪極まりなかった。それでも彼らはそこにいた。
「あたりまえだ」と、アーケードの日陰insunnyにいるからではなくて、内心の鬱屈の外への反射ゆえに陰気な顔をして、キオーディが言った。「旧式銃を手に一人のファシストがどこかの店に姿を現すだけで、いともたやすくあの青年全員を入隊させて縦隊を組ませられるさ……」「だがな、そいつの療治法なら、いまでは誰もが心得ているぞ」と、高校時代の凛々しいくせにざらつく声にその真髄を挿入した新しい声で、コチートが言った。キオーディはもう口を開かなかったし、ついさっきまで論争していたのは明らかだった。そこで、コチートがまた話しだした。「そうした徴兵忌避者の一人が、彼も旧式銃を手に、あるいは鉈か、ナイフを握りしめて、そのファシストがわがもの顔に振舞った通りで待ち伏せればいいんだ。言っておくが、背後からだぞ。なぜなら、真っ正面からファシストに立ち向かってはならないからだ。やつはそうするには値しない。人間が獣に対して払うのと同じ用心を重ねてやつを襲わねばならない。やつに飛びかかって、やつを殺して、やつの両足を掴んでやつを埋める場所まで引きずっていって、この地上からやつをぬぐい去るのだ。だから、箒の一本も下げていって、われわれの通りの埃の上にやつが残した最後の足跡まで永久にぬぐい去ってやるのもいいかもしれない。」
「それこそいま世にいうパルチザンだ」と、ある元生徒が言った。「きみは相変わらず一番の優等生だ」と、曇った眼鏡の奥で皮肉な満足感を閃かせながら、コチートが答えた。しかしみなは一心に、各人が各様に、新たにイタリア語となったあの新しい言葉を、黄金色に輝く大気のなかでこんなにも凄く素敵な言葉を、おのれの宙に漂う不安のなかで、その重さを量ろうとしていた。そしてコチートが話を続けた。「すべてはパルチザンという言葉の真の意味を理解するかどうかにかかっている」と、キオーディをあんまり横目でsideways見やるものだから、その瞳がすっかりレンズからはみだしてしまった。そこでキオーディが溜め息まじりに無理に言う。「パルチザンとは、誰であれ、いまもこれからも、ファシストと闘う者のことだろう。」このキオーディの定義を即座に受け入れた者たちみなのうえにぐるりとコチートが鋭い視線を走らせた。それから言った。
「きみたちのひとりひとりが間違いなくパルチザンになれると確信している。よいパルチザンに、とは言わない。なぜなら、パルチザンとは、詩人と同じく、絶対言語であって等級づけを撥ねつけるからだ。」ジョニーはキオーディを盗み見した。彼はおのれのアペリチフをいやいやheavy repugnance飲み干していた。するとコチートが。「どれ、よかったら、パルチザンについて、学校式に、テストするとしようか。パルチザンとは、よく狙って、ファシストの急所を狙って、撃つ者だというキオーディの定義を、われわれは受け入れることができるか?きみ、ジョニーよ、きみがファシストか、それともドイツ兵かを見つけたとして、つねにこの定義に敬意を表してその成就fulfilmentのために、きみはやつを撃とうとする。しかしだ、そこにこのしかしが出てくる。やつを撃ってやつを殺すと、二時間後にはその現場かその近辺にファシストもしくはドイツ軍の縦隊が報復に雪崩こんで、銃撃、略奪、放火して、その土地の者ばかり十人、二十人と殺すとする。このような可能性を承知のうえで、ジョニーよ、きみはそれでも平然とやつを撃ち殺すかね?」 「いいえ」と、咄嗟にジョニーが答えると、コチートは眼鏡の奥で笑った。「しんどいが為になるこの話を、よかったら、もう少し続けよう。ジョニーよ、もしもきみの父上がファシストだったとして、しかもだ、きみときみのパルチザン部隊の安全を脅かすほどに活動的なファシストだったとして、きみは父上を殺すことができるかね?」ジョニーは俯いた。が、他の者がいくらか激して吃りながらstammering言った。「ですが、先生、あなたは極端な例ばかり並べている。」「パルチザン暮らしはひとえに極端な例ばかりで成り立っているんだよ。先へ進もうか。ジョニーよ、もしもきみに妹がいるとして、きみはこの妹を使えるかね?この妹のセックスをだしに使ってファシスト軍かドイツ軍かの将校を誑かして、都合のよい場所におびき出して、そこで待ち伏せていたきみがやつを殺す、そうしたことがきみにできるか?」不毛の沈黙のなかでどのみちすでに自ずから叫ばれていたあの否を敢えて口にする者は誰もいなかった。しかしキオーディがその椅子の上で大儀そうに身を起こした。「コチート先生の言いたいことはだな、つまり確固たるイデオロギー的基盤なしにはパルチザンにはなれないということなのさ。自由それ自体では、彼には、もう充分なイデオロギー的構造とは思えないということだな。とどのつまりは、共産主義者にならねばパルチザンにはなれない、と先生はおっしゃりたいわけだ。」
「実際」と、コチートが言った。「そうでなければ、きみたちはただのロビン・フッドになってしまう。ジョニーよ、失礼ながら予想させてもらうと、きみは素晴らしいロビン・フッドになることだろう。しかしロビン・フッドであるからには、きみは最も出来の悪い共産主義者パルチザンよりもはるかに役立たずで、不真面目で、価値のない、いいかね、素敵でない男になることだろう。」キオーディが目玉をぎょろつかせたgoggled。「なあ、コチートよ」と、死人みたいな平静さをこめて言った。「きみにはむかつくよ。イエズス会士と同じくらいにきみにはむかつくよ。」
「だから、きみは幼稚なんだ」と、同じくらいに死人を愛しむ平静さをこめてコチートが言い返した。「だから、きみたちみなは幼稚なんだよ、きみたちみなは」と、コチートはその獅子みたいな頭を横に振りながら、まるで大人が小うるさい子供たちの輪にするかのように、彼らみなを遠ざけるみたいな仕草をした。けれども一人が言った。「でも、先生、どうしてあなたがそんなに腹を立てるのか、ぼくには分かりませんね。ぼくらはファシストを殺すだろうし、一人のロビン・フッドによって殺されたファシストだって、やはり抜きんでて共産主義の大義のために役立つじゃありませんか?」やがてお開きになった。なぜならYが嗄れたhoarsh声でそれでも耐えたユーモアをこめて言ったからだった。パルチザンの本質と目的についてこと細かに論じあっているその間にも、小銃を肩に下げてカッフェの角に現れた最初のファシストによってみな逮捕されてしまう幼稚な危険を、彼らはまさに冒しているのだ、と。そしてキオーディが最後に振り向いて、不精髭でいっそう目だつ疲れた顔で、言った。「少年よ、自由を見失わぬようにしよう。」「で、例のファシストを待ち伏せる武器については?」キオーディがぎょろ目をしたgoggled。「コチートが持っている。〈九月八日〉にコチートは彼の部隊じゅうの武器を埋めておいたんだ。一隊を不意に武装できるぞ。」だが、彼らは首を横に振った。「そんな武器のどれもぼくのものにはならないだろう。ぼくはコチートの後は追わないのだから。」「だけど、そうしたら、武器は?」「武器は奪い取るものだよ、たとえば憲兵を武装解除して!」そして彼らをその示唆の法外な衝撃のなかに、茫然としたままに、置き去りにした。どれほどそのことに奮起せねばならなかったことだろう。伝統的に、何世紀にもわたって後楯であった武器のコンプレックスを克服して引き千切るためには、そして公共の秩序のために必要な神聖な武器を憲兵警察から奪い取るためには……
ジョニーはまたも町へ下った。しかもきまって夜のあいだに、きっかり夜の帳が下りるころに下ったが、もうキオーディもコチートも見かけなかったし、たぶん彼らを探しさえしなかった。
そうしたある晩、彼は抗いようもなく映画館に吸い寄せられて、気概の虫mettleの知らせもあったのに、なかへ入った。まだセクシーな肢体sexy shapeのヴィヴィアン・ロマンスが、異邦人づらで漿液質のジョルジュ・フラマンのどうにも我慢ならない顔に守られた、『盲た美女』がかかっていた。その映画館は、スクリーンまで埃だらけの使い古しで、どんな経営にも固有の衰退のいつもの空気を漂わせていたし、無人に近くて、明かりのつく休憩時間中には、疎らな観客たちが互いに眉根を寄せてfrowningly相手を見て、グラツィアーニ布告の死刑の脅しの下で、映画に興ずるあの狂気を互いに非難しあっているかのようであった。
ジョニーは客の疎らな平土間をはるか下に見おろす高桟敷に坐っていた。時化とフラマン船長の性的狂乱が同時に色あせたその瞬間に、入口ホールで自暴自棄の殺到stampedeと、息を詰まらせた絶望的な息づかい、命令と獰猛さの容赦のない声、突然の暴力の無言の激発にも似た何かが起こった。一人の観客が大きな音をたてて立ち上がり、一斉検挙に雪崩こんだファシストたちに叫び声をあげて、壁にぶち当たり、閂の掛けられた非常口に体当たりした。入口ホールでのあの騒ぎは続いていたが、やつらはまだ客席には闖入して来なかったし、あの下にはある非常口からみな逃げだしていた。だから、ジョニーは救いとなる平土間を選ぶどころか袋小路の高桟敷を選んでしまった不運を思って苦悶せずにはおられなかった。ほかの男たちは壁や開かない扉をしきりに叩きまくって酷い音を轟かせていた。映写技師は、客席の明かりもつけずに、フィルムを打ち切ってしまった。ジョニーは手摺りの後ろ、平土間の真上にいた。その平土間がはるか下で、椅子のあいだでの死か、それともやはり捕まるだけの等しく死を宣告しながらも暫時猶予するdeath-sentencing-and-allowing恐ろしい骨折か、を彼に用意していた。けれども彼はむざと捕まるよりはむしろ身を投げようと決意していた。彼は手摺りを跨ぎ越して、木と石と鉄の歯並びのぞっとする口を大きく開けた物凄い救い主、あの平土間の真上にいた。しかし最後の鉄から両手を放さなかった、なにしろファシストなどではなくて、切符売場での窃盗未遂か何かがあの騒ぎのもとだったから。唐突で、裏切り的で、喚いて激発するものは、何もかもファシストであった。
ジョニーは映画館を走り出ながら、死人みたいに土け色のおのれを見、ゼリー状のjellyおのれを身に感じた。丘への道を歩みだしながら、おのれ自身に腹を立てて、両親に対しては自責の念でいっぱいremorsefulだったし、いまでは永遠の罰として汚れたファシストの誘惑と彼の目には映るヴィヴィアン・ロマンスの肉体を、道すがらずうっと心のなかで粉々に砕きながら登った。もう二度と町へは下るまい、と菫色の夜のなかを丘の上に登りながら彼は考えていた。あの丘をこんど離れるときこそは、彼がもっと高い丘へ、パルチザンたちの大天使たちの王国めざしてひたすら登るときなのだ、と。
章の終わり
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