[Ⅲ]
(第二部)
第十八章
拳銃は持っていた。だが、それが平たく重苦しく内ポケットのなかにこうも厳めしく嵩張っているのを感じると、一向に頼もしい気がせずに、むしろ苛立たしい異物感を覚えるのだった。もうそれは彼の夢みた身体と一体の銃ではなかった。半ば無人でくさくさする道すがら──いまは顔見知りの人びとはもう、初めのころのようにほかの離散兵や徴兵忌避者に対するのと同じく彼にも、思いやりのある親しげななじり顔を向けなかったし、いまではよそよそしいうんざり顔を振り向けて、遠くで、私と無関係であるかぎり、おまえに何が起ころうと知ったことかという風情なのだった──彼は歩きながら、大いなる日まで拳銃を隠しておく場所のことばかりを考えて、いまのいま、最初の角で、それを使わねばならないとは露ほども考えなかったし、たぶんそんなことはできもしなかったかもしれない。とにかく新しい感覚、往きあう人たちみなとはおのれが異質である感覚を味わいながら、彼は歩いていった。道ゆくあの人たちが心臓の上に、平たく冷たいその表面に仰天して鼓動する心臓の上に、拳銃を携えている可能性は千に一つもなかったし、拳銃のこうした抽象的で隠された硬さとその宿命がおのれの足取りや顔つきに反映しているに違いない、と彼には思われるのだった。彼は異質な者に《映っている》に違いなかった。けれどもやがて、目を覚ました意識が、いまは一挺の銃をある場所から他の隠し場所に移しているにすぎないことを彼に思い出させると、そんな異質性は弱められた光みたいに彼から消え失せてしまった。そうして彼は十一月の遅い午後のなかの何もかもの反映みたいに、灰色で受身な姿におのれ自身に映るのだった。
周辺地へと道を逸れてから、真っ直ぐに川へ向かった。橋と白い岩場のあいだの土手のなかほどまで行って、早くもかじかんだ草地の上で膝の上にうなだれて、目は川面の傷つけようのないヴェールを貫きながら、タバコを一本燻らしたかった(午後に割り当てた最後の一本だった)。しかし最寄りの土手の上に足を運ぶsteppedと、裂かれた橋、そのまだ真新しい裂け目が鋳鉄色の空を背に血塗れになってごく間近に迫ってきて、彼はその眺めに抗いようもなく吸い寄せられてしまった。そしてまた、渡し舟という新たな仕事の眺めも同様だった。それゆえ彼は渡し舟の荷揚げ場まで五十歩のところまで川岸を遡っていった。
青白い川原に、いつになく汚れた人たちがいて、あの渡し舟という魅力的で不確実な新奇さを、中世の空気を、息を殺して、啜りながら喉に吸い込むかのように、見守っていた。渡し守たちはあからさまにおのれを過信して、慎み深さと誇張をまじえながら、働いていた。そして同じ過信をもって乗った人たちは奇異な冒険から下りるかのように下船していた。ジョニーは泥で汚れたまま乾いた丸い石を集めて、石塚の椅子を拵えて、そこに腰を下ろすと、タバコに火をつけた。できるだけ長くそれをくゆらしていたかった、水の流れのなか、渡し舟の仕事のなか、崩れかけた空のなかに淡く移ろう雲のなかに、すべてのなかにあるあの緩やかさでそのタバコを吸いおえたかった。そして大気がこんなに漠としているので、台無しにされたとはいえ、聳えたつ橋のくっきりした輪郭そのものがあの大きな傷痕を憐れむかのようにすっかり霞んでflou柔らかくなって、夕暮れの大気が一気に黒ずんだ川面を縮らせて流れを早めさせ、汀に垂れ下がったポプラ林を呻かせるまで、彼は見つめていた。
いまでは、灰色く黄昏た川原にぐずぐずして、ジョニーとともにまだ残っている者はわずかだった。そして風が途絶えた折には静けさがいや増して、渡し舟の赤い錆止めペイントに、ひっぱたくslammingかのようにぶち当たってゆく川のなかほどの流れの音がはっきりと聞き取れるくらいだった。そのとき川向こうの街道に、欺く音の流動性と軽微さをもって、かなり長い縦隊の自動車部隊の騒音が聞こえた。ポプラ林の陰に隠れて正確に数えるのは難しかったが、二十台以上のトラックだった。そして彼らの色は、乗り組んだ兵隊の色のみならず、彼らの流動体の色もまた、ドイツ軍だった。川のこちら側の二、三人が、やつらを認めて、慌てて町へ逃げだしscrambled off to the town、彼らの噛みつくまっしぐらの足取りの下で川原の小石が遠心的に跳ね飛んだ。するとジョニーといたひとりの男がゆっくりと立ち上がり、歳のほどは定かではない労働者風の男で、頭にはバスクベレーを被っていたが、それがまた被ったまま生まれてきたのではないかと見紛うほどに彼の頭に油まみれにぴたりと嵌まっていっかな取れそうにないのだけれど、さらに近寄ると言った。「まあ、あの下の連中は気狂いか、あんなふうに逃げだすなんて。ドイツ軍は逃げだす者を撃つのだ、とまだわからないのか?」
怕いくらいに無関心に、それでもジョニーが言った。「そいつは本当だ、じっとして、こんなふうにやり過ごすほうが少しはましだ……」あの労働者の見直すと同時に戸惑うような眼差しを、彼は頬に熱く感じた。だが、向こう岸のドイツ軍はまったく何もしなかった。こちら岸で蜘蛛の子を散らしたみたいに逃げだした人びとがやつらの視界には入っていないかのように、ひたすら観光客然と、爆撃された橋と川の真ん中で動きを止めた渡し舟に見惚れていた。危険を自覚したaware乗客たちと渡し守たちの心と筋肉のなかの苦しいサスペンスを、ジョニーは遠目でも見て取ることができた。一人の若者がわれを忘れて艀から飛び込んだ。足から跳んで、頭が浮かぶと、川の本流の運ぶにまかせてやすやすと泳いで、ジョニーのいる川原に上がるのもまだ危険とばかりに、流れのままに遠ざかっていった。すると労働者が小声でせめて屈もうじゃないかと言って、彼とジョニーは川原にうずくまり、労働者は半分のタバコに火さえつけて、狙い撃ちされぬためのように丸くした手の陰で吸った。ドイツ軍は凝視を続けて、その遠く疎らで緩慢な仕草のなかには不測の障碍に対する苛立ちは見られずに、観光客然と、ただ眺めていた。「ドイツ軍がわれわれのほうに向かっていたのなら、おれたちの橋を破壊した英軍はよくやったといえるのだが」と、労働者が言った。やがてジョニーは川の本流mainstreamの下方に目を返して、泳いで逃げた男がすでに陸にあがって、川原の目に見える最後の辺りを慌しく駆け抜けscramblingて、岸辺の森の暗がりに向かうのを見た。いまではドイツ軍はエンジンに再び点火して、いわくあり気に出力を最小限に絞ったままで、その敵意とよそ者らしさを、いくつもの機関の振動からもジョニーと労働者は感じとった。やがてやつらは、まさに美術探訪を予定どおりにこなした観光団よろしくまた出発した。そしてあの縦隊の後尾が、トリーノに向けて広々とした街道をゆくのを見届けたのは、実に間もなくのことだった。あらゆるものが動きだし、人びとも渡し舟も大気そのものも、冬眠から覚めたかのように動きだした。ジョニーが立ち上がり、労働者もいくらかリューマチをこらえるかのようにやはり立ち上がって言った。「やつらはわれわれ目当てではなかった。橋を、敵の英軍の戦果を、観察しに停まったのだ。しかしやつらはいずれやって来るに違いないし、そのときにはきっと陸の方面からやって来ることだろう。」男は都会化されていない機械工の風貌があって、何もかも耐え忍ぶ風情と、ある種の無敵さ、冬の次にくる春ほどに確実な予知能力を示したので、ジョニーはそのことがありがたかった。けれども男が一緒に町へ向かおうと合図したとき、それも言葉で言ったのではなくて足取りで招いたのだったが、ジョニーは渋って、南へ向かわねばならないのだと掠れる声で言った。そしてそのとおりにして、町の厚さだけ土手の上を迂回して、ついで南から町へ入り込んだ。黄昏のなかに昏睡したかのような町並みは、恐怖のせいで見るからに横にだだっぴろくてゼリー状で、まさしく彼の老いた叔父みたいだったし、あの俄なドイツ軍の出現の反響にいまごろになって襲われたかのようだった。司教座大聖堂のロマネスク様式の鐘楼の力強い大厦高楼そのものがゼリーみたいに海抜以下に見えてlooked jelly and under height-level、もはやその衆生救済の永遠の徴はなくて、文字盤の上に長針短針は頽れて、二つの針の影は六時を指していた。
家に帰った。その家は、彼の長い兵役を閉じた短い丘の上の休暇のあとではいっそう目新しく常ならぬさまに彼の目には映るのだった。両親はすでに夕食をとっていて、階段を登りながらナイフとフォークの当たる音を聞いて、彼は気落ちした。彼の無分別に父親は首を横に振るにとどめていたが、母親は起ち上がって彼がわれから進んで破滅しようとしている軽はずみを面と向かってなじった。そこでジョニーは母親を宥める唯一の方法は、危険を小さく言うのではなくて、あけすけに話すことだと悟った。「ドイツ軍を見たよ。」ふたりはナイフとフォークを高く掲げたまま、そのもの悲しい食事から遠のいてしまった。「縦隊全部が、橋の向こう岸に二十分あまりも停まっていた。やつらはまったく何もしなかった。」「で、おまえはどこにいたの?」と、ドイツ軍が何もしなかった驚きを呑み下しながら、聞いてきた。「川さ、こちら岸のね。」
この世で最低の食欲をあやしながら、食卓についた。父親が言った。友だちのボナルディが町の北外れの彼の元ガソリンスタンドでパルチザンたちの夜間訪問を受けた。彼らはガソリンを探していたのだが、中壜二本の溶剤で満足するほかはなかった。それが友だちの持っていたまさにありったけの物だったからだ。「彼らはどんな様子だったの?」と、喉もとに心臓をせりあがらせてジョニーが尋ねた。ありふれた他の男たちと同じ男たちである以外ならすべてがありえた。ずっと不明瞭な声で父親が述べた。彼らは白い服を着て、アルプス・スキー兵の胸あてズボンを穿いていた……「第四軍団の離散兵に違いない。家まで帰りつけなかったか、それとも帰りたがらなかった人たちだ。そしてな、ボナルディの話によると、彼らは聖人の脛どころではなかったぞ。ガソリンなどもはや無いということをどうしても信じなくて、彼を脅して酷い扱いをしたそうな。ドイツ兵やファシストと同じか、それ以上に彼を震えあがらせた、とボナルディは言っているぞ。」頭を振って言った。「いたるところで暴力が溢れて、わたしらはその海原の真っ只中だ。」するとジョニーは、彼の父親やボナルディみたいに老いることの絶望的な悲しみを思った。老いて白髪頭で錆ついた男たち、彼らだって一九一五年の有史前の春には敏捷で高慢で荒々しい青年たちであったろうに。青春の解放のなかで彼らはどうしていたのだろう。敵味方双方から脅しつけられ虐待されるあの渦のなかに嵌まってしまったという彼の父親が導きだした考えにも我慢ならなかった。寄る年波を惨めにも認めて、皿のなかに垂れている父親の頭を彼は眺めていた。
彼の母親がファシスト共和国への誓約について仄めかした。誰かさんはとっくに誓約済だよ。ほんの形式にすぎないのだから。汽車に乗ってブラの本部に行って、誓約して、握手して、何もかも厳かな仲間意識の毒気の抜けた雰囲気のなかで、すっかりフェアプレイで仕上がるのよ。誰かさんはとっくに誓約済だよ。当事者間だけの秘密だのに、すぐに知れ渡っちゃうわね。弁護士だろ、小学校長だろ、トート組織と査証付の契約済の土地測量士だろ……「やつらはぼくの誓約を待ち草臥れてくたばるがいいさ」と、むしゃむしゃ食べるパンの間からout of his munched breadジョニーが言った。平たい声で、母親が言った。「何もそうしろなんて言ってないよ。それにまだおまえの番じゃないからね。いまのところは、やつらは将校たちの誓約を求めているのさ。だけどおまえは将校になって戻ったわけじゃないもの。」
「こんどは何をする気だい?」と、彼が座を立つのを見るなり、両親が聞いた。キオーディ先生を探しにひとまわりして来る、と彼が答えた。「ぼくだってやはりなんらかの接触はたもっておかないとね、何事か機が熟そうとしているのに、ひとりっきりでいるなんて、不可能だし、理屈に合わないよ。」そのあとで帰って眠るけれど、家の自分のベッドでだ。両親の頭が皿の上に揺れたけれども、彼らは叱るでもなく、危険の渦巻きのなかへ身をまかせていった。
外へ出るなり、胸の上の固い圧力で、彼は拳銃のことを思い出した。家にとって返してそれを隠そうと身を翻してはみたけれど、隠し場所をなかなか咄嗟には思いつかずにpuzzlement止めてしまった。こうして拳銃は身につけたままだったので、あの意気消沈させる夜の町の流離(さすら)いも無情なスリルgrim thrillでいくらかは耐えやすくなった気がした。彼はきっとキオーディに会えると思っていたわけではないし、果たしてキオーディに会いたいのかもよくわからなかったHe was not quite sure to meet Chiodi, to be willing to meet Chiodi。暗がりで巡査とすれ違った。その無用の制服を纏って、あんなにも哀れで、あんなにもそのことを自覚していたあの巡査はその非公式unofficialの足取りのなかで、おのれの哀れな無用さを自覚するあまりに人目を忍んでいるかのようであった。
彼はアルベルゴ・ナッツィオナーレへと向かった。ドイツ軍が目抜き通りのホテルにときたま出没するhauntedようになってからは、壁の上塗りを引っ掻くみたいな寒さにもかかわらず、先生がそちらに鞍替えしたのを承知していたからだ。けれどもまさにその道すがら、彼は先にキオーディを見つけた。忍び寄る寒気に悪化しだした関節炎ゆえに、引きずるようなその足取りで、真っ暗ななかでも先生とわかったのだった。そして先生は、手足の動きがとても無意識的で抑えられた、背が高くてほっそりした青年と連れだっていた。シッコだった。火の消えた小さなパイプを口の端から端へ動かしていた。「で、コチートフは?」と、ジョニーがささやいた。「彼はもう出かけたよ、ブラ近辺で、その赤い部隊を組織しにね。」ジョニーの心臓がどきんとしたが、拳銃の堅い冷たさにすぐに収まってしまった。シッコがいなかったら、先生に拳銃のことを話したことだろうし、見せさえしたかもしれない。キオーディが言った。「この厄介な関節炎さえなかったなら、わたしもとっくに今夜から彼と一緒にいたことだろうに。わたしの先決すべき区別は不動のままに残るが。しかし肝要なのは戦いはじめることだ、それからわかることだろう。ところがわたしは冬じゅう足止めを食らわねばならなくなった。わたしは春を待たねばならないのだよ」と、〈終末の日Doomsday〉のあとの最初の春でもあるかのようにそれを言った。「脚さえしっかり動くようになれば。」「なぜブラ方面で?」と、問いながらジョニーの心は再びあの土地を訪れていた、トリーノへの行き帰りになんども見て通過した土地、ナッツィオナーレ煙草工場の左手の赤い丘丘、窯を造るのに向いた土、どの丘も切り立って峡谷canyonsをなし、頂も同じように燃えたつ緑で、その下の赤い地肌が緑の鮮やかさを三倍はひきたてているかのようで、覆われた土地の人目を引くeye-catching景色をつくり出していた。「どの方面でもよいのだよ、ジョニーよ。」「ぼくが丘の上に登るときには、ぼくはランゲの丘々に向かうつもりだ。なぜかわからないけれど、ぼくの父方の血脈はそちらから来ているんだ。」
シッコが何かやるよりも言うのが面白い話があるよ、と先生が告げた。するとシッコがその言葉を受けて、その音節ごとに切る詳しい話を、しかも身振り手真似は恐ろしいほどに倹約しながら、そのほっそりした首をはね上げるリズムに合わせて、何かばかげた話をしかねなかった。彼が言った。「明日の朝、一番列車で、ぼくはブラへ行って、ぼくの立派な誓約をしてくるよ……ジョニー、ぼくを侮辱するのは待ちなよ。午後の汽車ではぼくはクーネオに着いて、二カ国語で書かれた許可証、アウシュ……を手に入れるんだ。」「Auschlanding」と、キオーディが正確に言った。「そうして用意が整ったら、ぼくは〈解放委員会〉のために行動を開始するよ、自由党代表としてね。」いいだろう、とジョニーが言って、よかろう、とキオーディも言ったが、つけ加えた。「きみたち〈解放委員会〉の男たちは恐ろしい時期を迎えることだろう、パルチザン戦士さえ遭わないような。」シッコが控えめに頷きながら、パイプの柄を唇でそっと締めつけて、そうした時期への覚悟はできているように見えたし、透けて見えるような不安は微塵も見せなかった……
やがてキオーディがその脚への寒気、霜を結ぶ石畳に襲いかかる、黒ぐろとした吠えない猟犬みたいな冷気の報いをこぼしたthe black, houndlike mute of cold raiding the frosty pave`。そこでシッコが、町外れの安カッフェに引きこもろうと提案した。安全無類だが、彼自身認めたように、気を惹くものなど無いに等しく、汚れていて、トランプ勝負を頑として続ける者が数人いるばかりで、空っぽの酒棚がうすら笑いを浮かべている……するとキオーディが見事な心機一転ぶりで、より当を得たホールとして優雅な淫売宿を逆提案した。そこでなら、アスパーシア、裸足の遊女たち──《この世で最も裏切らない女たち》──と、セックスゆえの懸念は微塵もなしに、気楽なおしゃべりを少しは交わせることだろう。二人は同意して、ただシッコは、明日のぞっとするような早朝にappalling earliness一番列車に飛び乗らねばならないので、あまり引き留めないでとだけ願った。ジョニーは過去のどんなときよりもはるかに身近に彼を感じた。あんなにも穏やかに、飾らずに誓約を待つ彼。育ちのよい冷やかなこの同じ態度をきっと保ちつづけて彼はファシスト軍士官と対峙し、おのれの誓約をくれてやるかわりに、その自ら買って出た反ファシズムの任務に最善を尽くすために最適の道具を手に入れることだろう。キオーディが言った。「それに淫売宿で罠に嵌まることはあまり心配しなくてよいだろう。ファシストがやって来ても、わたしの考えではやつらはわたしらに何もしないよ。イタリア男の淫売宿的連帯が優るはずだ。そうしてわたしらはみごとな共同ハンドをするわけだ、政治の埒外のかなたで。」笑いながら、彼らは優雅な淫売宿へと向かった。
淫売宿は閑古鳥が鳴いていたし、常連の現われるあてもなかったから、お嬢さん方はみな普段着のままで、ダイニングルームで、タバコをふかしながら、ポーカーをやっていた。ミラーノ女の主は温かくジョニーに挨拶して、先生にはほどよく敬意を表し、冷えた小パイプをしゃぶりやめないシッコをまるですげなく迎えた。女はすたったりの商売に目に見えて気もそぞろだったのに、そこはこの職業の昔ながらの高貴さゆえか悲歎のなかにも自制と品位を崩さなかった。けれどもついに動揺したどんな物売りとも同じようにたっぷりとあけすけに吐露しだした。最初の大打撃は休戦と軍の崩壊だった。将校の旦那方も下士官連中もとんと見えなくなった。二番目のずっと由々しい打撃は、数そのものよりもその示唆するところに由々しさがあって、民間人の来店頻度の漸減だった。「外で逢ってるのよ、かつてなかったほどに外で逢っているのよ!」と、愚痴をこぼした。「戦争のせいだわ。で、誰ももう道徳のことを考えないし、宗教はもう無いわ、だから誰もかも……、娘たちも人妻も。外ではいまでは自由恋愛があって、真っ盛りだわ。で、あたしたちも出かけるの……」「あなたがたまでもな」と、キオーディが言葉を引き取った。
女たちは気落ちしているふうには見えなかったし、小鳥が啄むみたいに短くぱぱっとタバコをふかしながら、呑気にスプルにうつつを抜かしていたけれど、ただときおりまるで何の意図も含まない斜めの眼差しを客たちに投げつけるのだった。とうとうシッコが小パイプを落として、固くなって上座の金髪女に合図した。「違反して済まないけれど」と彼が言った、「でも……どうも実際ぼくは着すぎちゃって……」「わかるとも、それにきみには」と、キオーディが言った。
「最後のチャンスになるかもしれないし。」そしてジョニーが。「断頭台の陰での抱擁か。ブロンドの大女とWith the big blonde.」
栗色の髪の、一番ほっそりして残り二人のうちであまり職業的でない女が、カードを置いてR6の箱を見せびらかした。彼女のあげるという仕草を同僚の陰険で殺人的な視線が截ち切った。キオーディが言った。「きみはドイツ煙草を吸ってるね」と、軽やかに。すると同僚の女が、むろん得意げな目をした生粋のヴェーネト女がそのとき爆発した。「この娘は共和国軍の男がいるんだよ……」「売女」と、ジョニーが清澄な笑みを浮かべて、たいそう心地好く言った。するとヴェーネト女が手の甲でブルーネットの女を打とうとした。女主があいだに入って、たちまちハイピッチでまくしたてた。「お嬢さんたち、また始めないで。やめなさい、このあば……ここには働きに来てるんだろうが。仕事がないから頭のなかに蟋蟀を飼うんだよ。」
ヴェーネト女が言った。「あたしはこの娘の男を見たんだから、違うったってむだだよ。ブラの駅で、乗換え列車を待っていた。む……つらして、あたしが連れの女を見たことないかのように。ところがあたしはこの娘を十三年間も見てるんだよ。おつにすましたつらして、手はいつも半分抜いた拳銃の上に置いちゃって。こんど逢ったらあいつに言っておやり、拳銃をしっかり握りな、どうせ引き金をもう押さえられやしないんだから、てね!」
ブルーネット女はうつむいて、シガレットから立ちのぼる煙に、まるで生贄的な吸入みたいに顔を晒していたし、恐怖でその痩せた肩を目に見えるくらいに震わせていた。「あたしが煮えくり返るのはね」と、太った女が言いつのった。「あたしがこの娘の女でひもだってことさ。この娘を毎晩あたしと一緒に寝かせてやって、何時間でも愛撫してやっていたのに。あなたは承知の上でしょ、お姐さま、あなたはいつも何か疑ってらしたから。でもこの娘ったら……共和国軍に男をこさえて。けれど、パルチザンがやつを即死させる日がすぐにやって来るでしょうよ。そうよ、そうよ、あんたがあたしを密告したってこわかないからね。なぜって、いいこと、あたしはいつだって、あんたの股を掴まえて粗朶みたいに口まで裂いてやるからね。」明かりの暈のなかにいまはとまっている片手の陰の合図からジョニーはキオーディに目を向けた。「みなさん!みなさん!わたしは声を大にしますぞ、落着いて、落着いて、落着いて!陰門ゆえにいかなる悲劇も起こってはなりません。陰門には命令も責任も通用しません。わたしは願をかけます。果てしなくあらゆる類の死者を見ることになるこの特別な戦争が、せめて誰ひとりその陰門ゆえに死なずに済みますように。天の意志が、虐殺は男たちだけに止めて、どの陰門も罰を免れて、差別をたてずに、戦士らを強くし、瀕死の者を慰め、ついには勝利者たちへのまったき褒美となることにありますように。」
「なんてむかつくんだろう!」と、ヴェーネト女が要約して、黙って苦しんでいるブルーネット女の上に肉の石塊みたいにのしかかった。そして女主は、先生に感謝して。「教授は、だってあなたは教授ですもの、極めつきの話をしてくださった。さあ、あんたたちは自分の仕事のことだけ、自分の稼ぎのことだけを気にかけなさい。どのK.も軍服は着てないからね。考えのあるひともなかにしまっておくのだよ。」
ヴェーネト女はもう何もつけ加えて言わずに、ただ手の甲で打つ動きだけをくり返したけれど、こんどはその中断のなかにいくらか労りが、ある特別な配慮がこもっていて、その日の夜にもベッドのなかで続きをして、おまえを明るくなるまで愛撫してやるからねとわからせるのだった。しかし、ちょうどそのとき彼らは、シッコと金髪の娘が数分前から階下に戻っていたのに気がついた。そしてその娘が躊躇いがちになったfaltering声でいった。「あたしはいつもパルチザンたちのためにお祈りするわ。毎晩パルチザンのためにお祈りを唱えるわ。」そしてその固い意志を秘めた言葉に戦きがあって、それは淫売宿の濃く淀んだ雰囲気のなかで羽ばたきにも似ていた。そしてジョニーはおのれがまだパルチザンではなくて、あの娼婦の祈りを享けられないのは辛いことだと感じた。
彼らは別れる前に握手して、キオーディはその哲学的な徹夜へと向かい、シッコはその短い、たぶん懊悩に満ちた、朝の五時には截ち切る眠りへと向かって、ついで凍てつく煙い駅へ赴き、汽車に乗って、敵手であるパルチザンと同じくらいに神話的なファシストの士官たちと面と向かって対峙しに行くのだった。
ジョニーは虚ろで戦きに満ちた、目的のない、ゴールのないgoalless一日に先立つ暗い夜へと歩んでいった。星々がビロードの上みたいに瞬いている重苦しい空のなかに、一機の飛行機がいまにも墜落しそうに、おのれの取るに足らなさを果てしなく自覚しながら、呻いていた。どこの国のものとも知れぬ飛行機で、たぶん現代的飛行士であるネモ船長によって雇われてwaged操縦されていたのかもしれない。あの飛行機は人びとの噂によれば、絶対的な闇への狂信的な切願にかられて、灯火管制に違反する明かりという明かりに機銃掃射を浴びせかけるとのことだった。
第十八章の終り
[Ⅳ]
第十九章
翌日、早朝に、ジョニーは拳銃を隠しに屋根裏部屋へ昇り、そこにそれを隠したまま過ぎる時間を思うと頭がsickening痛んだ。低い屋根の暗い皺になった緩やかな傾斜の裏へと、通れないくらいに罠だらけの狭い階段を登りながら、屋内の遊び場resorts indoorのなかで屋根裏がいちばん満足のゆく冒険に満ちた場所であったころのことを、幼年時代のことを彼は想っていた。頭上にのしかかる苔むした屋根屋根、仕切りや板材の障碍、剥きだしの壁という壁、密で、邪魔されない雀蜂やゴキブリなどの昆虫たち、どうも甲冑の一部みたいな散在する板金やブリキ、ゆっくりと飛びくる一群の矢みたいな雀蜂の羽音の横切る生温かく淀んだ空気、いるなんて考えられないくらいの女たちの不在、何もかもが、あのころは、屋根裏を冒険に向いた舞台か、それともせめて監視と戦闘以外に何もする必要のない世界のとある場所として見なすように彼を仕向けていた。しばしば大伽藍の堅くてどっしりとした壁を見下ろす、教会内墓地の真上の目の眩むような高さに開いた天窓框に陣取って、引きずり込まれるように易々と空想に浸って、多様な攻撃を有利な地点から撃退する城方になりきるのだった(彼の生来の気質からして、城方のヘクトールがぴったしだった)。結局、彼は白人を射殺すことを考えられはしたが、良心が咎めて狙いが外れてしまうのだった。そこでアメリカインディアンやアフリカの黒人を攻城方にしてみるのだが、それでもことはなおも完全ではないしまるで心穏やかではないheart-setting quite。最も目だつ猛悪な出陣化粧war-paintsを攻城方のアメリカインディアンや黒人に塗りたくることでやっと落着いたのだった。しかし、いまは白人間の問題だ、とおのれに言いながら、彼は綿にくるんでボール紙で包んだ拳銃をとある大梁の溝に隠してその詰物が発覚しないようにカムフラージュして、インテリア的な空想力を働かせて工夫する楽しみさえ覚えた。しかし、いつ役に立つかも知れぬ拳銃をむざと埋めているのだという思いが、何もかも台無しにしてしまった。
屋根裏部屋は、抽象的で人工的な、冷蔵庫じみた寒さだった。狭い階段を降りながら、その段段が子供のころの歩幅にはぴったりだったことに思い当たった。いまは下りながら、彼の足は段と段の間のわずかな高低差とその切って落としたような急さ加減に尻込みするのだった。
彼の父親が、悄気ながらも健気な付添人の顔つきで、ちょうど買物から帰ってきたところだった。彼の母親は加減が悪かったし、世界大戦がまるごと彼女の肝臓にのしかかっているようで、もうほとんど動き回らなかったし、不治の病を宣告された脇腹に強く片手を押し当てないではもうほとんど何もしなかった。けれども今日の両親の落ち込みぶりは破滅的で、手のつけようがなく、どんなカムフラージュも通用しそうになかった。その無自覚な解釈法的なやり方ゆえに、ゆっくりと体質的でわざとらしい父親の話ぶりには先験的な苛立ちを覚えて、ジョニーは母親から事情を聴こうとした。今日の母親は、肝炎による差し込み以上の何事かによってうちひしがれて口がきけなかった。いまは父親の無表情な綺麗な顔が事情を明かそうとしていた。「おまえは昨日の夕方、ドイツ軍の縦隊を見た、そう言ったな。」「ぼくは見たから、そう言ったまでさ。」「しかしやつらがどこからやって来たのか、知っているのか? 知りはすまい。B…からだよ。おまえが小さかったころ、わたしらが五〇九を持っていたころ、わたしらといっしょに、おまえはあそこを通ったことがある……」「ドイツ軍がB…で何をやったんだ?」「報復だよ。」
あの村の大岩に拠ったパルチザンたちがやつらになしたわずかばかりの死者のために、翌日やつらは村を焼いて、殺して、掃蕩して、掠奪して……「二人の司祭までもだ、うち一人はどのみち火に巻かれて殺されたことだろうに、それを炎のなかに掃射して撃ち殺したんだ。」
ジョニーには昨日の眺めが、その意味を明確にされるにつれて、恐ろしく位相がずれてきたし、それでも岸辺に停めた車輛のなかから顔を突きだして、予定外のあの夕暮れの停車のなかで、物静かに観光客然と風景を眺めていた報復者たちの眺めがなおもくっきりと目に浮かぶのだった。そしてまた、ドイツ軍に戦争ごっこを挑む、あの無自覚のパルチザン射手たちを何よりもまずin primis憎悪する両親のあの歴然とした傾向も恐ろしかった。母親が苦しげに動いて買物を引っ張りだした。
「神さまはやつらをあたしらから引き離しておいては下さらない、彼さえも。ジョニー、すぐに丘にお戻り。」
十二月に入って間もなくの日々に、何かが、たとえそれが半ば駆引き、半ば暴力の何かだったにしろ、極めて速くに起こった。その日ジョニーは幸運にも町の城門の外の従兄弟の家にいて、完全に監視下の隔離seclusioneという殺人的な倦怠からわずかでも従兄弟を救いだそうと努めていた。なのに叔父は奇妙にも病的なくらいに察しが悪くて、百度目の『レ・ミゼラブル』通読に没頭していた。それが、引退した保守主義者の叔父を、そのソゥシャルマキシマリストとしての裏切られた青春に立ち帰らせる唯一の変わらぬモチーフであった。彼らは曇った窓をとおしてかちかちの丘の斜面を下へ、町の青白い城壁まで見下ろしていた。ラジオの箱がヴォイス・オヴ・アメリカの催眠的な待機のなかで震えて、ときおり叔父は大きな頭をその本の中の本の擦り減ったページから擡げて、前世紀への讃歎と今世紀への嘲笑ゆえに震え声でのたまった。「ヴィクトール・ユーゴー。このような作家はわたしの時代にしか生まれなかった。」すると二人の従兄弟たちは大慌てで賛同して、叔父を黙らせてto stop him not to break、二人だけのはち切れそうに詰まっていながら空っぽの脳中を堂堂巡りする工作に専念するのだった。
何もかもがこうした眠気を催す、しかも神経症的な一刻に、町の立方体の囲いのなかで起こった。グラツィアーニ布告に答えようともしない徴兵忌避者たちを捕らえるために、布告を部分的に適用して、共和国軍の強力な一隊がにわかにブラから来襲したのだった。予想されたように用心深く徴兵忌避者たちは姿を晦ましていたから、やつらは将来の酷い結末にわが身を委ねないように必死になって、出払った徴兵忌避者の責任を留守家族にまで拡大して、脅えて険しい目つきの憲兵たちの協力をえて、何十ものdozen of them家族を町の留置場に連行して、心理的=感情的圧力の避けられぬ結末の様子見を決めこんだ。午後の早い時点で、共和国軍は飼い馴らした町を後にして、監視の役目はブラから派遣した一隊で強化した土地の憲兵隊に押しつけたのだった。
六時ごろに田舎家に、ジョニーの母親が初歩的な泰然とした筆跡で書きつけた手紙が届いた。絶対に動いてはだめ、脅えてそれでも沸き返っている町には下りてこないで、憲兵たちは脅えているだけに情知らずだから、叔母さんのところに無期限に厄介にならせてもらうよう頼みなさい。
ジョニーは夕暮れの暗がりのなかを、擾乱の大きな神秘的な箱に近づく刺激に浸されながら、即座に町へ下った。環状道路の並木が嵐のように嫌な音をたてて、不自然に激しく揺れ動いていた。アスファルト道の背後に追いすがる足音を聞いて、そちらに向き直った。彼もおのれの男としての秤を取り戻そうと、家を逃れ出てきた、ルチアーノだった。一瞬にして彼の横に並ぶと口を噤んで、決然と、信義に厚く歩いていった。ほかの男たちがゲームのルールを、すべて何世紀も経た掟を破ったからには、彼らは町へ下りて見て、抗議し、違反をぬぐい去らねばならないのだった。
町外れの通りはどこもまったく人けがなくて静まり返っていたが、町の中心部からは沸きたつようなざわめきが、それでもひどく心臓に堪える音が漏れてきた。そして町の舗道の上にファシスト軍の痕跡をなぞる感覚は、神秘的で 心臓に堪えた。腕ずくの行動が避けられぬという自覚がすでに十全に、彼らの筋肉の隅々まで、諦めにも似て、強張るくらいに行き渡っていた。ジョニーは、家族の脅しと涙の障害を越えて初めてまた取り出すことのできる、隠した拳銃のことを思って歯噛みした。従兄弟が言った。「制式拳銃をぼくが持っているよ。」
中心街では、まるっきり若い人たちの、フェンシングみたいに飛び跳ねる鼠みたいな動きがあった。そこに混ざり合っている顔々のなかにはとくに顔見知りはひとりもいなかったのに、みな若くて町の人間だった。彼らは警察憲兵に腹を立てていて、いまは民衆の口伝えのありとある形容辞と侮辱に加えるに新しい、はるかに由々しい《裏切り者》という罵りを浴びせかけていた。ほとんどみな武器を、拳銃や長大なピストル、最新型や旧式銃を手にしていて、背中にリンパ腺腫みたいな手榴弾の脹らみを見せている者もいた。喚声や憎しみよりも、即座の了解、流血の合意に、彼らは酔っていた。彼らのなかの最も年配者、どう見ても五十歳には届かぬ男が、ほかの男たちはみなとうに牢獄襲撃と脅したりすかしたりで投獄された家族たちを解放する策を練っていたplannedというのに、あらゆる警察への生来の憎しみをこめて、けれども商品市での掛け声みたいに陽気に、憲兵たちを呪いつづけていた。
誰もが一斉に口を開いたが、それでもみな奇蹟的にも、迅速に完全、明白な合意に合流していった。大多数の者は家族の遺物か、それとも奔流となって逃亡した第四軍団の土まみれの遺産かで武装していた。広場に民警団長がその太って高血圧症で藪睨み、擦り切れた革脚絆の上にのろくさ歩く、勲章やら総やらが夜目にも輝く姿を現した。片手を上げると、最も親身な声を出して言った。「諸君、解散なさい。諸君、私の言うことを聞いて、解散なさい。むろん、これは命令ではなくて、家長としての忠告だ。諸君、家に帰りたまえ。」どっと大笑いが彼に答えた。いくらか辛辣さの水脈をまじえた、まっさらの哄笑だった。しかしあの男はそんな笑い声の下でよろめいた。フットボール罰金の守護聖人、町警察の第一人者がそのけちなpetty制服姿を、停止信号stopみたいに、どんな将軍の記章の上にも決然と唾を吐きかけようという者の前に、立ちはだからせた。屈辱感がその声を励まし、ぐらつくtottering姿勢をしゃきっとさせて、最前の忠告の代わりに半ば命令を発した。しかしそのとき夜の集団のなかから一人の少年、たしかに庶民の家々(あの悪臭を放つ谷川に面した避病院とカスバの混ぜ合わせ)の一匹の大鼠だ、が進み出て、十九世紀の代物じみた目を疑うばかり長大なピストルをまえに差し延べ、その撃鉄が大袈裟な、血も凍るかちりという音をたてた。小柄な少年が銃口を官憲のofficial腹の真ん中に突きつけて、回れ右と命じて、こんどは腎臓の上に長大なピストルを突きたてて市役所のアーケードまで歩かせmarshalled、防空団を思い出させるUMPA remembrance哨所に男を押し込んだ。「また外に鼻面を出したら、おまえに禍あれ!」みなは素っ気なく短く笑った。いまは憲兵たちの番だった。
彼らは憲兵隊舎に向かったが、一度も振り返らずに、自分たちの数には驚くほどに無関心だった。人びとは〈九月八日〉以来のわれからの病的な冬眠から否応なしに追いだされて、戸口や窓から身体を突きだしていた。どの戸口からも若者たちが大きな人の流れに合流してゆき、年配の男たちは不屈の無言で頷き、ほかの男たちは用心深く抜け目ない声で用心深さと抜け目なさを助言していた。中央広場ではほかの集団が東西南北の通りから進みきて、合流して口数少なく同調して固まった。肘突きあわせてジョニーと並んだ少年は声価の高い狩猟用ライフル銃を肩に担いでいたので、またしてもジョニーはばかげたことに隠してしまったおのれの拳銃のことを思って歯噛みした。
憲兵隊舎に到る前のこれで最後の通りを彼らは進みゆき、弾力のあるひと固まりとなって、両端の少年たちは建物すれすれに歩いて、窓辺から身を乗りだして、色目を使いながら、性的に昂奮している女たちの顔を掠めていった。みなの先頭を切って進む少年は、メガホンを振りかざしていた。
憲兵隊舎は孤立した緻密さのなかに嵌めこまれていたが、黒ぐろと密閉されて、いまではこの世で最も淋しい建物、月の砦みたいに映ったし、死人の分身みたいにその陰気な影をくっきりと、十二月の月夜の白い路上に落としていた。すぐに突き当たりの球技場の柵に阻まれて、四メートル道路にぎっしりと壜詰めになって、誰もかもが正面に陣取った。おのれの持ち場あるいは足場footholdingを取って固めながら、ジョニーは思った、もしも憲兵たちが憎しみか、それとも恐怖にかられて、連射したなら、皆殺しになるぞ。そしてルチアーノはそのことを大人の大きな声で滑らかに言った。けれども誰もコメントも移動もしなかったし、あのどん詰まりの密集陣のなかで各人が独りだった。そのうちにあの見知らぬ少年が早くもメガホンを口に当てて、隊舎正面の手前の前庭front-garden、残忍な正面を飾るばかげて信じがたい緑の愛嬌を囲んだ密な鉄柵めがけて、武器みたいに掲げた。
「憲兵たち!」
その声は、近距離からの一斉射撃よりもずっと致命的に震え上がらせるように、壁に窓の鉄格子に跳ね返ったし、メガホンが少年の声を太らせて、その声量を不自然なものにしていた。しかし完全な沈黙が隊舎をなおいっそう孤立させて、強化した。
「王-国-憲兵たちよ!」
まだ返事はなかったけれど、盲格子からは風にそよぐ葉枝みたいに何挺もの銃がこちらを狙っていることは容易に想像がついた。
「憲兵たちよ、ぼくはきみたちと話しているのだ。ぼくの声がきみたちに聞こえていることは分かっているんだぞ、憲兵たちよ。ぼくらはただ投獄された人びとを解放したいだけなのだ。ぼくらに監獄の鍵を渡すか、それとも看守たちに電話してくれ。きみたち憲兵は、何も痛い目には遭わないことだろう。ファシストどもがしでかした卑劣な行為だったことは、きみたちもぼくらと同じくらいによく知っているはずだ。だから、ぼくらはその行為だけを無効にしたいのだ。さあ、憲兵たちよ、待っているのだから、ぼくらに返事をしたまえ。」
何もない、さらに何もない、ついに一人の少年が辛抱しきれなくなって、建物正面を狙って、鉄柵の上を掠めるように手榴弾を投げた。けれどもずっと手前に落ちて、庭の若い桜の木を直撃して赤い暈で包んだから、若木はその刹那、X線に照らしだされたかのように闇のなかに浮かび上がった。すると、隊舎の中二階から警告の機関銃が高めに一連射されて、球技場の遠くの石壁に当たって潰れた。銃弾は真っ白な埃のなかに凍って落ちたdropped。一人の男がメガホンを少年からひったくって囲いの低い壁の陰に駆けこむと、メガホンを潜望鏡みたいに高く構えた。彼の声は大人のものだったし、メガホンの変声作用さえもその生まれながらの説得力と、その生来の駆け引きの手腕を奪いはしなかった。「憲兵よ、おまえらはみずからの運命を徴したいのだな。機関銃などわれわれには痛くも痒くもないぞ。われわれは小童ではない。われわれはパルチザンだ、汚点を拭い去りに町へ下りてきた、山のパルチザンだ……われわれにも機関銃があるし、憲兵よ、大砲も、装甲車もあるぞ。もしもおまえらがわれわれに攻撃を余儀なくさせるのなら、一分以内に片をつけてやる。だが、そのときにはもうおまえらの言い訳は通用しないぞ。分かったか、憲兵?われわれはパルチザンだ。われわれの仲間には、おまえらの戦友、憲兵たちもいるぞ。」言いおえるなり、みなを振り返って、あの虚仮威しbluffの評価を知りたくて、男は呆れるほどに焦れた顔を見せるのだった。
沈黙の軋る音が、沈黙の原子たちを電子的にフライにする音が聞こえた。やがて隊舎の扉のカシャッという音が聞こえて、月の光と同じくらいに強烈に照らしだされてほとんど目に見えない一人の人影がそこから出てきた。懐中電燈を振り回して、全身に明かりをふり撒いておのれの将校の軍服を示すと、玉砂利の自暴自棄の軋る音のなかを、鉄格子の門まで進みきた。メガホンの男が彼めがけて歩きだした。聞き取りにくい男の話し声が聞こえたが、将校が懐中電燈を彼に向けようとすると、きつい口調に変わったし、将校が集団のほうへ向かおうとすると手荒く引き留めるのが見えた。彼らの話し声はぽんぽん届いたけれど、沼地から吹き寄せる突風みたいに分かりにくかった。合意に達しなかったに違いない。なぜなら、決闘を控えた者たちのリズミカルな足取りで、二手に分かれたからだ。あの男は戻りながら、高い声を張りあげて言った。「総員、撃ち方用意! 装甲車、前進!」
ブラフの見破られる寸前に、憲兵隊が降伏した。叛逆者たちが庭に侵入し、目に見える武器は身に帯びていない憲兵たちは無関心を装って隊舎の壁に向いて並びながら、怒りでぐらつく手でタバコに火をつけた。一分もしないうちに、あのタバコの仄かな明かりで、彼らは気がついた。山から下りてきた、本物のパルチザンなどではなくて、小童たち、たいていはしょっぴいて獰猛な顔で怒鳴りつけて度胆を抜いて小便をかけてやるほどの悪童たちが、家にあった滑稽な遺物で武装しているだけだ…… そこで彼らは俯いて顔を胸に埋めようとしたけれども、それでも恥辱と遺恨を、ブラフに乗せられた火傷を糊塗するのには足らなかった。秩序を守る俸給生活者である彼らの運命を不憫に思っていたrelentedジョニーは、こうした汚らわしい曝露を目にして、再び硬化した。それでも仲間の一人が、三十歳を越えた男が、ほかの憲兵たちがみなタバコをふかして哀れにもむっつりしているのをいいことに、一人の憲兵を掴まえて殴って蹴っているのを見ると、割って入った。「放してやれ。」「おれの親父の分だ!」「こいつはおれの親父の分だ!」「きみの父上に彼が何をしたのだ?」「そうだよ、おれがおまえの親父に何をした?」とその憲兵が愚痴をこぼした。「おまえは何もしなかった。だが、ほかの憲兵どもが、おまえと同じ憲兵が親父をやってもいない盗みのかどでしょっぴいて白状させようと砂袋で代わる代わる胸を叩いたのだ! 以来、親父は死ぬまで咳をしつづけていた。」
そうした事実は匕首みたいにジョニーの胸をえぐって、彼が血と肉から成る男ではなくて、本の紙の繊維から成るベニヤ板みたいにおのれ自身に映るのだった。しかしもうすでに時間がなかった。全てを要求するallcalling本隊が監獄のほうへ歩きだし、その真ん中にあの将校と三人の憲兵が取り籠められていた。将校は盲たみたいに進みながら、自らがしっかりと取り籠められた集団の案内に信頼をおくのも止むを得ないかのようであったし、早くも音をたてて喘いでいた。
ここまでは何もかも町に属する出来事であるかのように見えた。とある町の若者たちの集団がひと騒動起こしてひとえにその町に犯された不正な行為を改めようとした、と。だが、牢獄へと向かう道のなかほどから、奇蹟にも似て自然発生的に同時に『マメーリの讃歌』の歌声が湧き起こった。まるで遠くから、囚人たちと看守たちに知らせるかのようであった。しばらくすると、憲兵たちもコーラスに加わったけれど、声は出さずに口を動かしていただけだったかもしれない。
彼らは監獄と隣接する教会のあいだの狭い道に堰き止められて讃歌を歌いつづけながら、高い塀のなかでも再び讃歌をくり返し歌っているのを耳にしたし、その間にも将校は鉄鋲の打たれた大扉を叩きつづけていた。看守たちは納得しないばかりか、覗き穴から覗いて将校を確かめようとさえしなかったし、いくつもの拳銃に押されてあの将校の言うことはみなあべこべに解釈せねばならないと思っていた。讃歌は荒い息遣いのなかで霞んでゆき、短気な喚声に喉を譲った。看守たちは扉を開けると、両側に身をこごめて、勝ち誇った集団暴走stampedeに巻き込まれまいとした。数十人の検束された人たちが、監房への悪寒と監房の不足ゆえに、狭い中庭や階段にとうに集まっていた。互いに抱きあって、キスしあっていた。「ジョニーよ、ぼくの母さんにキスしておくれ、きみを見たがっているんだ」と、徴兵忌避者のひとりが言った。背中じゅうをポンポン叩かれながら、ジョニーは言われたとおりにした。解放された人びとはみな口々に看守らはよくしてくれた、物分かりがよかったし、とても人間的だった、としきりに言った。あの将校は、むせた声で、とくに誰にというでもなくみなに言っていた。「後生だから、気をつけて、一般囚が出ないように、気をつけて!」監獄の衛兵たちは、悲鳴を上げて、すっかり浮き足だって、汗だくの南イタリアの小男たちは、彼らにはよく知られて他の大多数には閉ざされている地の利を活かして、到る所に這っていっては、合掌して、職務と命令を呪って、その夜の着想と出来事と当事者たちを祝福して、方言で話している者に彼らが分かるようfor their ears' sakeイタリア語で話すようにと空泣きをしながらsnivellingly頼むのだった。
硝酸塩を含んで悪臭を放つ石塀を背にある男が話していた。「成さねばならぬことだったし、上首尾だった。しかし、その結果、招く事態というものがある。ファシスト軍はこれを軽視できないし、さもなければ彼らの負けだ。大規模な報復が二十四時間以内にあると覚悟せねばならない。あの将校にはわたしらは何もできないが、彼は隊舎に戻るなり、電話に飛びついてファシスト軍に報告に及ぶことだろう。」疲れ切って、いまにも倒れそうで、まるで好戦的でない彼をちらっと見て、まさにそんな電話をするには彼は最後の力を振り絞らねばならないだろう、と彼らは感じた。「みな丘の上に登って眠るほうが少しはましだし、あるいはせめて泊まるところを変えるくらいはすることだ。そうして明日は一日じゅう姿を隠しているように。」
何もかもが終わったし、いまでは残っている者たちはわずかだった。勝利と自由の讃歌が静まるsubsidingにつれて、立ち去りがちになり、一般囚と看守を中に大扉が再び閉められるように、彼らは狭い中庭から出た。最初の大きな蜂起のあとの心地よい疲労感に浸りながら、They tottered a little彼らはいくらかふらついた。ほんとうに大きなひと揺れであったし、あの将校は建国いらい何世紀にもわたって揺るがしえなかったイタリアそのものだった。信じがたいことだったが、真実だった。「あと少しきみと歩いてゆきたいところだけれど、ぼくは疲れてしまった」と、彼は従兄弟に言った。「明日、丸一日過ごしに、丘の上のぼくのところに来てくれるかい?」
彼は家路についた。これまで一度もそんなふうに歩いたことはないくらいにゆっくりと歩きながら、うわべは倦怠感に包まれて、心のなかでは微笑め、しどけなく、ばかみたいに、とおのれに言い聞かせていた。北国の十二月の凜とした寒さのなかを、五月の終わりころの気温の釣り鐘状のカプセルにすっぽりと包まれたかのように歩いていった。家に着くなり、コップ一杯の水を一気に飲み干して、その冷たさが彼を騒ぎたつ夢からすっかり覚ましてくれた。廊下に出ると、両親の寝息が代わる代わる続けて、聞こえてきた。彼は立ち止まって、両親の夜のあの息吹の魔法の下に長いあいだ立ち尽くしていた。「ぼくは両親の寝息を気にかけたことは一度もなかった。いつの日にか、消えてしまうこの寝息を……」両親はこんなにもお人好しに眠っている。なのに彼はその間にもおのれの人生を生きていて、公権力とその施設を、はるかに防備の固い相手が無力のときに、実質的には武力攻撃して…… 父親の寝息の揺るがぬことには信用がおけたけれども、母親の寝息となるとそうはゆかない。彼女はいつも片目だけつぶって寝ているくらいだった。実際、彼が両親の寝室の入口を通りすぎようとしたときに、彼を呼んで、身体は起こさずに、彼に尋ねた。何があったのか、大騒ぎが聞こえたし、大きな歌声や拍手までして、でもたぶん幻聴だったかもしれない…… 「何が起きたの?」「何も起きなかったよ。」「それでも……」「もし何かが起きたのなら、明日の朝になれば分かるさ。」「明日の朝……」「眠ってしまえば、明日の朝なんてほんの一瞬後のことだよ。」
床について、うつ伏せに寝て、柔らかなベッドの上で、かつてないほどに重さのあるわが身を感じて、そのときほどに彼はおのれの大きな重さ、おのれの驚くべき男としての具体性の、はっきりとした可塑的な感覚を覚えたことはなかった。
朝になると、町じゅうが前夜の武力解放のことでもちきりだった。そしてくすぐられた空想力が優ったかのように、すべての手柄と責任は幻でも真実の高い丘の上のパルチザンたちに注がれて、実際に装甲車だって繰り出していたし(機銃を回しながら、町の城門際でその動的な静止状態のまま待機しているのを、誰が見なかっただろうか)、山岳兵の将校たちが指揮していて、そのなかにはジョニーという中尉もいた…… 「おまえそこにいたの?」と、あるかないかの疑問をこめて、母親が尋ねた。ジョニーは片手をひらひらさせて、おのれの参加の度合いの軽さとその結果の及ぼすものへの懐疑を分からせようとした。ちょうどそのとき町役場の取次ぎ頭が訪れてノックした。教会の古い宗派の男で、とても有能で慎重でバランスのとれた男なのに、取扱注意の区分を再び開くのにすべての終わりを待たなかったのだった。話したいのはジョニーの父親とだったけれども、ご家族おそろいの場でお話ししてもいっこうに差し支えない、こんなにも卓越した、立派な……不幸な家族であってみれば。老人が《不幸な》と音節を切って言ったときに、母親の手のなかでラバールバロ酒の壜が震えてチンチン鳴ったけれども、いまは老人は微笑みながら、白い手をひらひらさせて詫びていた。彼が言った、前夜の出来事のゆえに報復を覚悟せねばならないが、彼の知るところでは、報復は町の二十人ほどの人士を、無期限に人質として、一斉逮捕することで実行されることだろう。そのリストはもう仕上がっていて、ファシストの老弁護士チェルッティによって、いまや彼が若返ることになった遠くの黒シャツ旅団に入隊する前に、裁判所の者に手渡されることだろう。何もかもあらかじめ決められていて、各逮捕チームが何時に動きだすのかも彼は知っている。「分かりました、ありがとう、ですが……」と、ジョニーの父親が不明瞭に言った。「あなたはリストの五番目ですぞ」と、そのとき取次ぎが言ったが、声は宥めるみたいだった。「わたしが?」「あたしの夫が!?」「ぼくの父が!?」「でもなぜ?」「社会主義者だから。」「このわたしが!?」「あたしの夫が社会主義者!?」
ジョニーは、激しやすい涙の岸辺を洗う、ヒステリックな笑いの発作に見舞われてしまった。彼の父親が社会主義者だって! よかろう、父親がそんな話までするごくたまさかの折りに、耳を傾けてみれば、ジャーコモ・マッテオッティの暗殺はどうしても父の腹に据えかねることだったし、かの〈主義に殉じた人〉の黄昏派的なポートレートと《私のなかの思想は死なない》とはときおり父を途方もなく感動させる偉大な力を持った唯一のものであったかもしれないが、だけど……社会主義者だなんて! 父親は沈黙して、たぶん遠い昔の霧のなかからチェルッティ弁護士の邪悪な老耄顔をまた釣り上げようとしただけかもしれなかったが、母親は呼吸困難と肝炎の発作に見舞われた。しかし、口あたりのよいラバールバロ酒の油を注されて滑らかに快くなった声で、宥めるように柔和に、取次ぎが割って入った。「後生ですから、発作など起こさないで! 他愛のないお喋りではありませんが、悲劇でもないのですから。私の言うことに耳を傾けてください。私が忠告する小さな犠牲を払ってください。〈九月八日〉以来あなた方の息子さんが身を隠されていた丘の上の小別荘に、三人とも、みなさんで向かってください。」そういう彼の考えに、三人とも一緒に頭を擡げた。なるほど、司教区の男がそう言っているのだった。「一週間以上はそこに留まらずともよいってことだって、充分ありえますぞ。家の戸締りをよくなさっておいてくだされば、私が日に一度は見回って、何事もないかどうか確かめる、とお約束致します。しっかりとお約束しましたぞ。」
その場で決まったし、彼女にとっては世俗の叡知の裏切ることのない師匠である教会関係の男たちへの全面的な信頼をこめて、決めたのは母親だった。「このことを知るのは私と司教総代理さまだけとなるでしょう。」と、取次ぎが言った。「司教総代理さまもこのことを承知なさっていてくださることはあたしの願いです。」と、その自覚のない儀礼上の天才ぶりを発揮して、母親が言った。「一週間以上はそこに留まらずともよいとよろしいのですが、私の知らせのあるまではそこを動かずにいてください。私の報せを待つのですぞ。」と、感謝の言葉を躱しながら、辞去していった。
ジョニーは母親に雪靴だけを薦めて、しかもかなりの躊躇いをもってそう言ったのだけれど、母親の直感のニトログリセリンを燃えあがらせる蝋マッチとなったのはこのことではなくて、スーツケースに詰め込む段取りのことに彼女はすっかり聾になってかかりっきりになっていた。ジョニーは軽やかに屋根裏部屋に登って、拳銃を取り戻した。
午後の一時には、穏やかで草臥れる登り道のあと、彼らはすでに丘の上にいた。ただ母親の金銭上の気掛かりだけが水をさす山歩きだった。「うちのお金は見越したよりずっと早く消えてゆくわ。」父親が言った。「金はまた貯えられるが、生命ばかりは誰もまた貯えられやしないからな。」ジョニーが言った。「金の心配なんて止しなよ。事が終わったら、ぼくが働くよ。それに夏までには何もかも終わるはずだし。」
小別荘は野性に返った、新たな佇まいだった。そして辺りの何もかもが完全に冬のjemale、新たな佇まいだった。川も平地も丘も、何もかもが春の復活なしの墓地を予感させていた。町は、黒ぐろとした待機の昏睡のなかに、寒の不動の靄のあいだに、不安に灰色がかって見えた。あんなにも不吉な外観を呈していたので、町の外にいることにかえって心が慰むのだった。マリダMaridaに関しては、その場所、生け垣、小径、丘の鞍部が。
When yellow leaves, or none or few, do hang
黄色い葉の、あるかなきかの二、三枚が、垂れるときに
Upon those boughs, which shake against the cold,
寒気に震える、そうした枝々のうえに、
Bare ruin'd choirs, when late the sweet bird sang...
晩くも小鳥が甘美に唱ったときに、雨曝しの朽ちた内陣……
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肝炎を患っている母親が苦労しながら彼のためにもベッドを整えているのを見ると、彼は後悔した。あのベッドは、土壇場でおのれを裏切らないかぎりは、彼が使うことは決してないだろうに。だからって、あのことを母親に言えたろうか?
その日の午後と夕べとはナイアガラ滝みたいにniagaricamente真っ逆さまに暮れてしまった。すべてが死に、闇と風だけが残って、強風が母親の神経を鋸で挽いた。彼女はロンドン放送をアドレナリンおよび麻酔剤として必要としていたので、ラジオがないために発作を起こした。ところが、父親のほうはその不分明で曲がりくねった順応性からか、心理的な新しさのなかにぬくぬくと住みついていた。彼らは呆れるほど早く床に就いて、父親は身体上の精力的な昂揚の高まりと砕かれえない安全に浸りきって両手を擦りながら、子供にかえった信じがたい声で口ずさみながら言うのだった。「外でこんなに風が吹き荒れているときに、布団のなかで寝ているのはなんて素敵なんだろう!」
ジョニーはしばらく本を読むからと言っておいたのだが、階上でupstairsどんな物音もしなくなると、マーローの本を脇へ退けて肘をついてelbowed down、その短さとビジネスライクさbusinesslikenessに悲壮なものを覚えながら、あの手紙を書いた。それは主として母親に宛てたものだったけれども、そうすることは最小とはいえ、やはり悪だった。母親の裡で創造愛と所有愛が決闘するのをこの目で見るde visuという考えには到底耐えられなかった。うら寂しいdreary丘の上で、あの手紙を前にした彼女の朝となるであろう、その朝を想うことは、胸のはり裂けるheartrendingようなことだった。短すぎて堅苦しいあの手紙は、もしも彼に……冒険の結末が悪しければ、彼女にとって残りの人生を通じてたった一つの形見の生命のかけらlife-pieceとなるかもしれないというのに。それからおのれの新しい徴をそこに残しておくかのように、再び紙のうえを指でなぞって、母親が確実に見つけるように、それなら、もし……だけど彼の母親は勇気のある強い女だったし、彼が冒険を開始するのに要する物事を引き寄せる術はおもに彼女から知ったのだったしand mainly from her he knew to draw the things for his opening adventure、おまけに敬虔な誇りの真っ直ぐな気質さえも。
最新の動作については、まったく音をたてない、おのれの忍び足、長年培ってきた天賦の才を、彼は信頼した。何もかもうまくゆき、拳銃はすでに胸の上にあったし、いまは身体の一部になって、とうに働いている筋肉みたいだった。ただ雪靴だけは、外に出て、轟々と吹きすさんで酔わせる風のなかで、履くことにした。
最も高い丘々、その不動さにおいてできるかぎり彼を助けてくれるであろう父祖の地に向けて、黒ぐろとした風の渦巻きのなかを、男はその普通の人間の大きさにあるときに何と偉大なのだろうと感じながら、彼は発った。そして発った瞬間に、彼は権限が──死そのものもそれを剥奪することのない──イタリアの真の民衆の名において、あらゆる方法でファシズムに反対し、判決を下し、執行し、軍事的かつ民事的に決定する権限が、おのれに与えられたのを感じた。そんなにも大きな権力は酔わせるものであったけれども、しかしそうした権力を彼が正当に行使してゆくという自覚のほうが果てしなく遙かに酔わせるものであった。
そして身体的にも彼はこんなにも男であったことはなかったし、ヘーラクレースのように風と大地を撓めながらゆくのだった。
第十九章の終わり
(以下、工事中)
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