彼は夢のなかで見た。黄色い流線型の染みが右手から飛びかかってくるのを。瞬間、目をつぶり、トラックの横っ腹にそれが激突する音を聞いた。目をまた開くと、おのれの胸と平行にビオーンドの軽機関銃の鈍く光る銃身が、相手の車の粉々に砕けたフロントガラスに狙いを定めていて、男たちはすでに後ろからどすどすと地面に跳び下りていた。
2009年2月26日木曜日
パルチザン・ジョニー 〔第一の遺稿〕[Ⅰ][Ⅱ]
『パルチザン・ジョニー』(一九六八年版)がぼくの心を捕らえたのはいつのことだったろう? ぼくはまだ学生だったのではないだろうか? 夢中になって読んで、三七〇ページあまりを一気に読了してしまった。あんなに夢中になったのは、浪人生時代にペンギン版で読んだ『カラマーゾフの兄弟』、『悪霊』以来のことだった。『私的な問題』は全共闘時代に読んでその文学的な豊穰さと深い問題性、それにまさに私的な理由で、いつか必ず日本語にしようと心に決めていた。
『破綻』はあんなにも短い中編小説が辛くて──たぶん幼い頃の山村での思い出に俄かに襲われたためかも知れないが──読みきれずにいた(もちろん何年か後に、改めて読みおえたときには、最も好きな一書のうちに入っていた)。そのころに『パルチザン・ジョニー』を読んで、フェノッリオが紛れもなく大作家であることを確認できたのは大きかった。『日本読書新聞』にパルチザン・サガとして紹介記事を書いたのは前出『蜘蛛の巣の小道』(白夜書房)を訳出、出版した前後の一九七〇年代半ばのことだったと思う。フェノッリオと同じ一九二二年生まれで一九七五年に惨殺されたパゾリーニについては、その評論二作の翻訳出版が滞っているものの、去年ようやく『愛しいひと』(青土社)を出して少しは借りが返せた。フリウーリ語の初期詩群『カザルサ詩集』上梓の目途もついた。フェノッリオについては今度が最後のチャンスかも知れない。不退転の決意で臨まねば、ジョニーとミルトンに申し訳がない。
《ジョニーは丘の上の小別荘の窓からおのれの町を観察していた。ドイツ軍の七重の網をかい潜って、はるか遠くの悲劇の都ローマから、思いがけなく不意に舞い戻ったのち、その彼を潜伏させるために家族がこの別荘を急遽借りたのだった。地元でのあの九月八日の光景、一個連隊まるごと兵営が、乗員不足のたった二台のドイツ軍装甲車ごときに降伏したさまと、封印貨車でドイツへ流刑されるありさまを目の当たりにして、誰もが、家族も取り巻き連も、ジョニーが戻ってくることはないと思い込んでしまった。最良の場合でも、イタリア中部のどんな駅からでも出発したああした何本もの同じ封印貨車の一輌に詰め込まれていまごろはドイツに向かっていることだろう、と思われた。》
右の書出しで始まる『パルチザン・ジョニー』第一の遺稿は、全四〇章五三四ページである。第一章で見るように、汚い旋風みたいに生還したジョニーは、直ちに丘の上の小別荘で潜伏生活に入る。だが、落ち着かない。麓に下りて、やはり生還した従兄弟と会ったりしている。第二章以降を大急ぎで、しかも引用を交えながら、あらましを述べると、丘の娘との束の間の情事──
《彼はそんなにも間近にまじまじと丘の少女を見つめていたから、その眸の黄金のうすく散った碧玉を顕微鏡を覗くみたいに見ることができたのに、それでも彼女の声は幾重ものフィルターをとおしたかのように彼に届いた。「どう、よかった?」 彼女が吃った。「果てしなく。あなた……あなたってすっごく達者なのねえ。」しかしやがて彼は身を起こすと、叫んだ。「でもぼくはおのれが男だと感じない!」彼女は目を瞠った。「あなた、自分を傷つけてるわ……」なのになおもジョニーは、少女の言葉には聾で無関心に、いっそう大声で、くり返した。「ぼくはおのれが男だと感じない!」》。
《……その水音が響くだけだった。彼女が言った。「あたしが女でなかったなら、あたしは女になりたい。その次もまた女に。その次の次もまた女に。でもそれがだめだったら、あたしは青鷺になりたい。」それから歌った。「あたしがあなたといる瞬間はいま終わろうとしている」と、理由はないのに言わず語らずの言及をこめて。するとジョニーは彼女のセックスの意識によって襲われた。彼は彼女とともに、彼女の中にいた。そしてそれは、その日の午後じゅう彼が感じたと思ってきたような、彼女の外にある、抽象的な、霊みたいに宙に漂っているかも知れないものではなくて、具体的な低みにある、現実的なものであって、確認と所有の徴として、彼の手の愛撫を待っていた。そうして彼女は、ジョニーの仕事を巧みな最小限の動きで楽にしてやりながら、薔薇みたいにひらいていった。》
──英軍機の銃撃と橋爆撃、ジョニーはついに町へ下りて旧師、生き残った旧友たちと再会する。こうして徴兵忌避者、離散兵、脱走兵などの若者たちがかなりおおっぴらに町を出歩けば、当然、取締りを呼ぶ。やがて潜伏者たちの両親を憲兵が一斉逮捕する。自然発生的なデモ隊が憲兵隊舎を取り囲み、武力解放する。──
《ついに一人の少年が辛抱しきれなくなって、建物正面を狙って、鉄柵の上を掠めるように手榴弾を投げた。けれどもずっと手前に落ちて、庭の若い桜の木を直撃して赤い暈で包んだから、若木はその刹那、X線に照らしだされたかのように闇のなかに浮かび上がった。すると、隊舎の中二階から警告の機関銃が高めに一連射されて、球技場の遠くの石壁に当たって潰れた。銃弾は真っ白な埃のなかに凍って落ちた。》
──ジョニーの両親も当座の様子見に丘の上の小別荘に潜伏し、ジョニーは決然と出てゆく。
《最も高い丘々、その不動さにおいてできるかぎり彼を助けてくれるであろう父祖の地に向けて、黒ぐろとした風の渦巻きのなかを、男はその普通の人間の大きさにあるときに何と偉大なのだろうと感じながら、彼は発った。そして発った瞬間に、彼は権限が──死そのものもそれを剥奪することのない──イタリアの真の民衆の名において、あらゆる方法でファシズムに反対し、判決を下し、執行し、軍事的かつ民事的に決定する権限が、おのれに与えられたのを感じた。そんなにも大きな権力は酔わせるものであったけれども、しかしそうした権力を彼ジョニーが正当に行使してゆくという自覚のほうが果てしなく遙かに酔わせるものであった。
そして身体的にも彼はこんなにも男であったことはなかったし、ヘーラクレースのように風と大地を撓めながらゆくのだった。》
──ランゲの丘々を歩きとおすが、パルチザンに出会わない。ついに最も高い丘々の連なるランゲの外れ近くまで来てしまった。そこでジョニーは〈赤い星〉の部隊に合流し、初めての戦闘の洗礼を受ける。やがて掃蕩戦に本腰を入れはじめたナチ・ファシスト軍によってほぼ壊滅的な打撃を受ける。包囲網を脱したジョニーは沢と丘を彷徨い、ようやく〈青〉のパルチザン部隊に合流する。ここで友人たちと出会い、司令官ノルドの信頼をえる。小戦闘では多少の成果を見るが、ファシスト軍をやり過ごしてその帰途の最後の一台を襲う待ち伏せ攻撃では、軍曹を死なせてしまう。ジョニーの隊に残ったあとの兵はほとんどみな少年たちだ。季節は夏から冬へ冬から丘の上の真冬へと移ろう。それでも一時は英軍のパラシュート投下による物資補給を受けて、故郷の町アルバを北イタリアで初めて解放するが、二十三日間しか持たない。
秋から急速に冬の忍び寄る長雨のなかで、パルチザンの部隊は次々に丘々に撤退する。ジョニーの隊は川岸を守り、次いで農場の堀を守り、最後には塔を守って死闘を続けたのだが、……。まさに《アルバは一九四四年十月十日に二千人で奪取し、十一月二日に二百人で失った》のだった。
やがて英軍の無謀な白昼のパラシュート投下を機にドイツ軍の大掃蕩作戦が開始され、砲撃が大地を揺るがし、丘の上の村々は焼かれ、丘々に黒い煙が立ちのぼる。小広場に集められた穀物は泥濘にぶちまけられ、輜重車の車輪で泥のなかに鋤きこまれる──逃げたパルチザンと村人がたとえ生き残ってもこの冬を越せないように。
総崩れになったパルチザン部隊。ターナロ川、ベルボ川、ボールミダ川の間を、谷間の沢から丘の斜面、その頂から、中腹、また沢へと、ナチ・ファシスト軍の人間狩りを逃れて彷徨する。
何度も死地を逃れてたった一人生き残ったジョニーは〈ランガの牛舎〉にたどり着く。そこには死んだはずのエットレとピエッレが彼を待っていた。ランガの女主の婆もいれば、あの狼犬もいた。やがて病身のピエッレは麓の村の許嫁の家に匿われ、喉を患ったエットレのためにジョニーは薬を求めに深い霧のなかを出かける。その留守にファシスト軍の巡邏隊が農場を襲い、エットレとランガの婆を捕らえ、狼犬やすべての家畜、食料もろともアルバに連れ去る。
荒らされた無人の農場でジョニーは真冬を迎える。ジョニーだけではない、いまやランゲのすべての丘々でひとつの丘にひとりのパルチザンしか生き残れなかった。厩で奇妙な圧迫感に目覚めたジョニーが銃を手に転げ出てみると、あたり一面真っ白だった。雪だった。……。ついに突き止めたスパイ、言葉を交わし、撃ち殺すジョニー、エットレと交換するためのファシスト軍の捕虜、クリスマス、戻ってきた老婆、なにがしかを持ち寄る村人たち、ついに脱出してきた狼犬、……物語はなおも続く。
《ジョニーはますます腹を立てていた。あの赤い星はみな、初めのうちこそ数人の鳥打ち帽や鉄兜だけの特権だったのに、いまでは誰もが、大多数は義務みたいに赤い星を散りばめていた。しかもみなが笑みもなく、とはいえ苦情もいわずに赤い星を縫いつけていた。ファシストの斧に棒の権標に対するに、最も自然で申し分ない旗標と釣合い重りになるのだから、と。可笑しいのは赤い星の唯一の、あるいは最大の供給源はここいら一帯の村々の幼稚園のシスターたちだということだった。彼女たちはなにか悪感情と同時になにか慈愛深い入念さをこめて赤い星を製造した。だからシスターへの支払いを誤魔化したりひき延ばしたりは考えられないなら、彼女たちは恐ろしい債権者だと、マーリオ准尉が頷いた。》
《……。平和を愛するあまり心臓が彼のなかで嗚咽した、だから、二叉路で起こったことを彼は少ししか、あるいはまるっきり、見なかった。彼は夢のなかで見た、黄色い流線型の染みが右手から飛びかかってくるのを。瞬間、目をつぶり、トラックの横っ腹にそれが激突する音を聞いた。目をまた開くと、おのれの胸と平行にビオーンドの軽機関銃の鈍く光る銃身が、相手の車の粉々に砕けたフロントガラスに狙いを定めていて、男たちはすでに後ろからどすどすと地面に跳び下りていた。……。》
──この突発事故で捕らえたドイツ軍少佐ゆえに、ドイツ軍の大規模な攻勢を呼ぶ。
『パルチザン・ジョニー』〔第二の遺稿〕の大きな特徴はその構成にある。
1.最初の冬(最終章の直前の章)/ 2.最初の冬(最終章)
3.夏3 / 4.夏4 / 5.夏5
6.町1 / 7.町2 / 8.町3
9.町4
10.忍び寄る冬1 / 11.忍び寄る冬2 / 12.忍び寄る冬3
13.忍び寄る冬4 / 14.忍び寄る冬5 / 15.忍び寄る冬6
16.冬1 / 17.冬2 / 18.冬3
19.冬4 / 20.冬5 / 21.冬6
22.冬7 / 23.冬8 / 24. 終り1
──全二十四章二七七ページである。
夏が終われば、パルチザンの暮らしに秋はない、ただ長い忍び寄る冬だけがある、そして冬。数えてみると、最初の冬二、忍び寄る冬六、冬八と、冬だけで十六章、本書の大半を占める季節は冬である。フェノッリオがこの作品においていかに冬を重視していたかが、またパルチザンにとっていかに冬が大敵であったかがわかる。春もない。春は勝利の日と同じだけ遠い。
パルチザン・ジョニー 〔第一の遺稿〕
[Ⅰ]
第十六章
ジョニーは丘の上の小別荘の窓からおのれの町を観察していた。ドイツ軍の七重の網をかい潜って、はるか遠くの悲劇の都ローマから、思いがけなく不意に舞い戻ったのち、その彼を潜伏させるために家族がこの別荘を急遽借りたのだった。地元でのあの九月八日の光景、一個連隊まるごと兵営が、乗員不足の not entirely manned たった二台のドイツ軍装甲車ごときに降伏したさまと、封印貨車でドイツへ流刑されるありさまを目の当たりにして、誰もが、家族も取り巻き連 hangers-on も、ジョニーが戻ってくることはないと思い込んでしまった。最良の場合でも、イタリア中部のどんな駅からでも出発したああした何本もの同じ封印貨車の一輌に詰め込まれていまごろはドイツに向かっていることだろう、と思われた。ジョニーのまわりにはいつも漠とした、理由のない、とはいえ気に入った好ましい pleased and pleasing 評判、頭を雲のなかに突っ込んでいて、文学ばかりで現実感覚がない、非実践的だ、との名声が漂っていた……ところがジョニーはごく朝早くに家に闖入してきて、母親の気絶と父親の彫刻と化した驚愕のあいだを汚いつむじ風みたいにすり抜けた。目の回るような速さで裸になるとその最良の私服(あの昔っからのビクーニャ織の服)に着替えて、また見出したあのスマートななりで階段を昇り降りしては、身奇麗にした。その間も家族は彼のすぐ後を追うばかりだった。町には住めなかった。町はやっと免れたばかりのドイツ行きの控えの間だった。町にはグラツィアーニの御大層な布告がどの街角にも貼り出されていたし、二、三日前にはフランス派遣軍団の離散兵たちの奔流が通り過ぎたばかりだった。町にはドイツ軍の分隊が町一番のホテルに陣取っていたし、アスティやトリーノから小型軍用車に乗ったドイツ兵の来襲がひっきりなしにあって、人けもなく、灰色の、裏切りの臭いのする通りという通りに恐ろしい鋭い音を漲らせていた。離散兵であるうえにグラツィアーニ布告の対象である若者にとって町は絶対的に住めなかった。父親がひとっ走りして丘の上の小別荘の所有者の許可をえてくる時間と、彼がその書架から闇雲に半ダースほどの本を鷲掴みにして、帰還した友だちの消息を尋ねる時間、それに母親が彼の後ろ姿に向かって叫ぶ時間。「食べて眠るんだよ、眠って食べるんだよ、そして悪い考えは決して起こすんじゃないよ、」そしてやがて丘の上で、潜伏生活。
一週間というもの彼はよく食べ、さらによく寝て、『天路歴程』、マーローの悲劇、ブラウニングの詩篇を精力的に読んだが、気の晴れることはなく、全般に悪化の、激しやすい感覚が募るばかりだった。そして彼は内的なリフレッシュとして実によく風景を眺めた(ときには十五分間以上ものあいだただ一幅の景色に見入っていた)。そしてそこから人間の徴や気配を取り除こうと努めてみた。間の抜けた気取った別荘だったが、秋の恋のお仕着せを着た山端に立っていて、秋雨の走りを集めて荘厳に濁った、低い両岸のあいだを不変の鉛の溶岩みたいに流れ下る、町の出口の川の流れを眼下に見おろしていた。夜の静けさのなかで In the stillness of night 、川音はかすかな唸りとなって山の端づたいに別荘の窓辺まで、待ち伏せするかのように這い上がってきた。けれどもジョニーは、辺りの丘々とともに彼を育てあげたあの川を愛していた。丘という丘が辺りにのしかかってきて、秋めいてますます霞んだ flou 辺り一帯を、ゆっくりと忍び寄る靄の音楽的に巻く渦のなかに押し込める、ときには丘という丘そのものが靄にほかならなかった。傷んだ太陽の下で不健全に煌めいている川沿いの平地と町の上に、どの丘ものしかかってきた。大伽藍と兵営の大厦高楼が、あるは陽に灼かれ、あるは煙って、目立っていたけれども、じっと観察を続けるジョニーの目には二つながらどちらも正気離れした遺物に映ったことだった。
秋の日々は、秋ではあっても、耐えられないくらいに長くて、昼間寝て潰したかに思えた時間は早くも夜ごとの不眠となって跳ね返ってきて、いまでは彼は夜通しタバコを燻らせながら、足を組んで、本ばかり読みふけって過ごした。だから朝という朝は病んで悪夢をもたらした So mornings were diseased and nightmared 。死活の地、生まれ故郷をまた見出したという感慨が薄らいでみれば、風景はいまでは彼の吐き気を誘った。文学は彼の吐き気を誘った。食べ物と睡眠のあの過多 surfeit が軍隊生活の何もかもを彼から拭い去るにつれて、週末には彼は機関銃のいったいどの部分から分解し始めるのか、もう分からなくなった。ほんの一週間前には目隠ししてもできたというのに。そしてそれはまずいことだった。何かが、内から刺すように凍らせる icefying 、そいつはまずいことだと彼は気がついていた。武器は彼の生活のなかにまた舞い戻ってくるかもしれなかった、ひょっとしたらそこの窓からも、ありとある不屈の決意と反対の誓約にも拘らず。
ラジオが要ることを、鋭く、病的なくらいに彼は感じたが、この点に関して家族は少なくとも今のところはどうしようもなかった。キャンディダスのあの独特の訛りでまくしたてる gluttoning on his own accent あの声が聴きたくてたまらなくなった。ほとんど毎日、父親が登ってきて、何やかや必要なものを書き留めて for several requests-annotation 、地元や全国のニュース、ひそひそ話やラジオ放送で知ったことを彼に告げた。こうしてジョニーは、救いようもなく反叙述的で不明瞭な父親の声を通して、スコルツェニーの仕業でグラン・サッソの山塊からムッソリーニが救出されたこと(パーリオの旗みたいに奴をもぎとっておきながら、土壇場で in extremis 撃ち殺すこともできなければ、安全に隠しておくこともできなかった)、ドイツでファシスト国民政府が樹立されたこと、ドイツ軍から返されたローマ放送でパヴォリーニがなした声明のこと(ジョニーはつねになくありありとあの高官の異邦人面を見て、冷え冷えと即座にその物理的な抹殺を想った)、そしてケファリニア島での虐殺のことを知った。町では、何事もない、だからこそ人びとはますます互いに信用しなくなっているし、いっそうおのれのうちに閉じ籠もって、もう病的だね、と父親が物語る。「治安には誰があたっているの?」「憲兵が服務しているけど、見るからに渋々とだし、最近は実に冷やかなものだよ。」軍の崩壊でほかに帰りついた者は?たとえば配属先に運がなかった者たちでは、シッコはフランスから、フランキはスポレートから、ブレンネロからは某が帰ったよ…… 《ロシアは言うまでもなく、ギリシアやユーゴスラヴィアで軍崩壊に見舞われた兵隊たちのことを思うがいい……》ジェジェは死んだよ。どうして、知らずにいれる?モンテネグロから戦死公報が届いた、もう夏のことさ。家族は戦死だといっているが、口に銜えて撃って、自殺したんだよ、みな知っていることだ。こうして、ジェジェは逝った。奇妙な獣医、夢見る少年の道 dream-boyness を歩みだした男、ジェジェの後には、もう誰ひとりいないことだろう、両手を鴎の翼みたいに広げて走る男は。
従兄弟のルチアーノはミラーノから幸運にも帰ってきていた。ドイツ軍の自動車縦隊が驀進する自動車専用道路と平行して、ヴェルチェッリの水田地帯の奥ふかく deep を夜だけ歩きとおしてきたのだ。いまは家にいる、そうとも、ジョニーが天辺で暮らしているこの同じ丘の山裾の、城門外の自分の家に。父親が帰っていった。「いいか、おまえはどんな事があってもこの上から動いてはならないぞ。こらえるんだ。おまえがおまえのことを考えたくないのなら、わたしらのことを、おまえの母さんのことを考えろ。この数日間というもの彼女は苦しみ抜いてるぞ she agonized these last days 。」
だがその同じ日の晩には、暗くなって好都合な時刻に、泥濘だらけの丘を突っ切って、ジョニーは従兄弟に会いにゆくことにした。夢魔に苛まれる孤独と、呵責ない無音の雨の下で一握りの砂みたいに溶けてゆく湿った闇のなかの土というきまった眺めには、もう耐えられなかった。闇雲に歩いた。しかし、どうして男たちは抗しがたくも失われた立場をこんなふうに取り戻して、やつらの戒厳令の下に命じ、罰し、殺し、もがく、そうした一切の能力を取り戻すことができたのだろう、しかもわずかな、笑うべき武器と、しかも膨大な数の群衆と、大地の果てしない広がりをもって?
従兄弟はまったく変わっていなかった。ただ目立つ禿げあがった額がすでに広かった額をいっそう広々とさせて……軍隊の習慣が再びジョニーを掴まえて、士官服姿の従兄弟を想像させようとしたが、そんな姿は想い描けなかった。それどころか、反対に、皮肉にも正反対の、自然児の、腿の辺りまで黒い長靴下を穿いた、自動的に、非論理的にシルヴィオ・ペッリコを彷彿とさせる幼い少年がまざまざと見えてしまった。
「ぼくは九月八日には中央駅で任務についていたんだが、小型軍用車で乗りつけた最初の二人のドイツ兵はわれわれが血祭に上げた。」と従兄弟が語った。「ごく簡単なことだった。ミラーノの駅を征服しに二人で現われるとは、信じがたい厚かましさだ。そのお灸みたいなものだった。ふつうの勤め人がわれわれに味方して、そのなかにひとりの弁護士がいた。ほんとうに、〈あの五日間〉むきの酔わせる、夢みたいな雰囲気だった。そしていいかい、あの弁護士は若者どころか、小柄な老人だったよ、《武器は市民に譲るべし Cedant togae armis 》とのたまいながらぼくの指揮下に入って、彼は個人的に撃っていた。だから何もかもぼくには謝肉祭のことに思えたよ。やがて振り返ると、おまえのまわりには誰もいなくなった。ドイツ兵はますます数を増しているというのに、だ、ますます大勢になって。──真新しい軍服を脱ぎ捨てねばならないのは残念なことだったよ。生命と引き替えに脱ぎ捨てたんだ。〈軍人互助会〉には大した出費だったのにね。」
叔母はラジオの選局つまみをいじくっていた。ジョニーははるか昔に彼らがこのラジオを買ったときのことを思い出した。叔父が音楽狂だったから、マスカーニの『皇帝ネロ』初演を聴くためにわざわざこのラジオを買い、叔父夫婦はこの秘教的な器械のまえで鑑賞の夕べを催して親類一同を招いたのだった。
紛れもなく肉のせいでぶくぶくとゼリー男 jelly みたいな叔父は、恐れて金切り声をあげ、音量つまみを調節している妻を手振りで脅し hand-menaced 、予測しがたい裏声で尋ねた。ロンドン放送を聴いているところをファシストの巡邏隊に踏みこまれて逮捕され、幾夜も秘密の隔離牢で氷みたいな水のなかに裸足で立ってねばならなかった某みたいな最期をおまえも遂げたいのか。ジョニーはロンドン放送が聞けるものと思っていたが、聞こえてきたのは違う放送開始のテーマソングで、やがてこちらヴォイス・オヴ・アメリカとアナウンスがあった。従兄弟のルチアーノが明かりの暈のすぐ外でユーモラスににたりと笑い grinned humorously 、叔母があからさまに言った。「あたしたちはヴォイス・オヴ・アメリカのほうが好きなのよ。イギリス人にはうんざり、ヨーロッパのあたしたちみなと同じ大豚よ。アメリカ人は別ね、ちがう?ずっときれいだわ。」
アメリカ人の話し手 speaker は美しい声の持ち主で、その正確な鼻音 twang の振動は魅力的だったが、ニュースの中身は彼の声を下回っていた were under his voice 。ローマへの快進撃を予想させて開始されたサレルノ大上陸は海岸=山地の最初の突出部で砂を被ってしまった。家で戦況を逐一追っていたルチアーノが言った。連合軍はすんでのところでまた海に追い落とされるところだった。ともあれいまはなんとまあ陣地戦に明け暮れている始末だ。そこでジョニーはおのれに言った。サヴォーナへ向かう途中で見かけたあの師団が大いに奮戦したのだろう。むだなことなのに、見るからに、むざとは引き下がらぬやからだった。遠い記憶が彼らを肥大させて、悪臭によって清められた巨人兵士の群れとなるのだった。
フィオレッロ・ラグアルディアのコメントが続いた。「こやつは誰だい?」「ニューヨーク市長よ、ねえ、」とすかさず叔母が教えた。ヴォイス・オヴ・アメリカなしでは彼女はもう生きてゆけなかった。「イタリア人なのよ、移民の、あたしたちと同世代よ。彼がニューヨーク市長になるまでの苦難の道のりを思ってもみてよ!」ラグアルディアの声が炸裂した。シチーリア英語のしまりのない抑揚、黒ぐろとしたシチーリア人の汗と苦いアングロサクソンの消毒との虫の好かない混血が、ジョニーには耐えがたかった。言葉という言葉の皮を剥きながら、起伏の多い激しさで話していたから、そうして剥かれた皮の切れ端が干からび千切れてラジオのグリッドに跳ね返るかのようだった。その昔の同郷人にたいする侮蔑によってか、それともドイツ人にたいする根深い憎しみによってかは分からないが鼓吹された、高すぎる pitched 声だった。この男にとっては何もかもがたやすく、即刻の、決定的、致命的なことだった。「攻-撃しろ、やつらを攻-撃しろ!棍-棒と匕-首でやつらを攻-撃しろ!」ジョニーと従兄弟は憤懣と蔑みのあまりぱっと立った。彼らも叫び返した。「棍-棒と匕-首でやつらを攻撃しろ!だが、やつはゲーリングの戦車 panzer を見たことがないんだ!こんなやつがニューヨーク市長だなんて……!サレルノのアメリカ軍は棍棒と匕首どころではない装備なのに、一歩も前進しやしない。低能め!汚い低能め!田舎っぺ!」アメリカと、ラグアルディアも含めてアメリカ的なものへの留保のない、殉教者的な、ひっそりと攻撃的な感嘆に膨れあがって、無言で硬直しながら、叔母が立ち上がった。やがて気持ちが鎮まるとラジオの前に坐りなおして、ラグアルディアの最後の喚き声に耳を傾けてそれらをときほぐし、大事に溜め込んでいた。一方、叔父は、そのゼラチンの巨体を悉く震わせながら、重要なことはとうに言われて聞かれたのだから、ラジオを消せと叔母にヒスしていた。彼女は亭主は気にかけずに、激昂した小児のひゅーひゅーいう息づかいの大男の汗だくの狂乱に背を向けて、音楽の終わる最後の調べが消えゆくところでラジオのつまみを回した。ジョニーと従兄弟は果てしない怒りを胸に狭苦しい台所を往きつ戻りつしていたが、批判的で慈愛のこもった叔母の眼差しに掴まってしまった。明かりのなかに衰えた銀髪の頭を擡げて、彼女が言った。「いまどきあんたたちの年頃の息子を持つことは恐ろしいことだわ。」ジョニーは痛いところを突かれて touche' 、おのれに言った。両親のことを考えはじめねばならない、もっと彼らと彼らの魂の世話をせねば、親父もすっかり老けこんでしまったことだし。
暇乞いをした。安全な最初の晩にまた来いとルチアーノが言って、叔母がその不敵な飾らなさで頷いたが、叔父は口ごもりながら冷淡に挨拶した。「ルチアーノ、きみがぼくのところに来いよ。午後に……」とジョニーが耳うちしたのを、老人が聞きつけて、一言ずつ言葉を切って spelling 言った。「ルチアーノは動かない。もう決して動かないだろう。」それでも従兄弟は、木の下闇 frappe` の濃い丘の坂道を途中まで送ろうと外に出た。そして彼らは一言も話さなかった。
初秋は臨終の苦悶に入ったかに見えた。九月末に三十歳の自然は月経閉止の発作 fits に身を捩り、黒ぐろとした悲しみが自然の色を盗まれた丘々に垂直に落ちてきて、彼の酷使された surmenage`s 目には手品の一組のトランプみたいに殖えてゆくように映る陰気な、遠くのポプラ林のあいだを、不実な泥土の低い両岸を舐めて流れる、溺れやすい川の鉛みたいに重い泥のなかに、息を殺すほどの残忍さが漂った。そして季節外れの風が、長い夜々にはっきりと悪魔的に、不自然な速度と力で、しばしば吹き荒れた。
窓からジョニーは目を凝らして、あの丘から町へと高度を落としながら、実に明瞭な町境の最初の砂利道まで、真っ直ぐに伸びている灰色のアスファルト道を仔細に眺めていた。目の届くかぎり、行き交う人の動きは、疫病みたいに、疎らになって、そのわずかになった動きがかなり速くなって、通行人はリドリーニの映画の登場人物たちみたいに、喜劇的に加速されているように見えた。そしてその滑稽さのなかには、後ろぐらい苦悶の、毒のある切っ先が隠されていた。
小別荘へと登ってくる父親を、遠距離から、はっきりと彼は見た。まだ町外れのアスファルト道を歩むその姿の疲労感、喜びのなさ non-joy にジョニーは衝撃を受けた。目を遮るもののないその道のりのあいだずうっと彼は父親を目で追っていた。老いた父親への愛と憐れみで彼の身体のなかで心臓が溶けだしていた…… 《いまどきあんたたちの年頃の息子を持つことは恐ろしいことだわ》。父親の足取りのどの一歩も苦悩と断念を語りかけてきた。そして遠く高みで父を待つ息子は感じていた。どんなにしても決して父に報いることはできないだろう。たとえ百分の一でも、たとえおのれが生きつづけたとしても。父に報いるたった一つの方法は、父が彼を愛したのと同じように彼もおのれの息子を愛することであったろう、といまは彼は考えていた。父親にはそれで何を報いるわけでもないが、人生の台帳のなかではそれで帳尻が合うのだろう。父親を迎えるときには、そういう父に相応しいように、優しく迎えようという意志と意図とで彼は震えていた。だが、父親が小別荘の最初の小階段に足を踏み入れてその姿が見えなくなると、そのときジョニーは自動的に、にたりと笑いの漏れる grinning 渇望をこめて、親父めタバコを持ってきたかな、と考えた。
あった。が、いつもよりは一日分の本数が減っている。それに新聞ひと束。ジョニーは発作的にタバコに火をつけて、一紙を拡げた。事態は悪化していた。ファシズムはゆっくりとだが着実に力を盛り返し、かつて見られなかったくらいの有機的統一ぶりだった。すべての新聞が再び歩調を揃えだして、政治的空白期間に咲いた短命な編集長たちを一掃していた。自由や、ためになる悲劇や、外国への再接近や、無視できない西欧的価値について社説を書いた主幹はみな掃きだされていた。再編成された小部隊の一枚の写真、王への誓約を棄ててドイツ軍の醜悪な銭箱 foederis arca に盲従した、グラツィアーニの兵士たちだ。スポーティーで、極めて能率的で、故王国軍の同じような部隊よりも果てしなく効率的で、最新の装備で、ドイツ軍ふうgermanlike で、みな溢れるような信頼の笑顔で、あからさまに、断乎として兄弟殺しの、蛆虫の湧き出るような視覚効果をもって映っている。しかし絶品はローマ進軍当時の古臭いドミノ服に超モダンな武器を吊るした、エットレ・ムーティ軍団兵士たちの写真だった。錫メッキみたいな頭蓋骨の刺繍入りの、スキーヤー用の黒いセーターの肩にパラベルム銃を吊るしていた。だが、検討してみると、年寄りと子供、古参兵と新兵にマスコットたちから成る、不均衡な部隊だった。
ジョニーは新聞から目を上げて父親を見た。安物 cheap の籐椅子のうえに何か控え目な落着きのなさで腰を下ろし、急速に朽ちゆく rapidly-decaying 午後の程よい明かりのなかでその頭が軽く振動していた。苦悩と、絶望と、悲観的に見ることが、破滅した、アステカの男みたいな外見を父親に帯びさせていた。浮かびでた初歩的な感情が、姿勢における何世紀もの進歩を無にして、すべてを非常に古い時代の図像性に凍結してしまっているのだ、とジョニーは突きとめた。
また新聞に、別の一紙に、没頭した。ファッショは大都会を再び掌握していた。そこから数多の小都市や田舎に窒息させる油みたいに再び拡がってゆくのだろう。全紙がとりわけ強調していたのは、労働者が布告にしたがって、全員が仕事を再開し、規則的に就労しているということだった。それゆえやつらは再編しつつあった。やつらはなかなかたやすくは死なないだろう。そしてこうした再編成と決定的な死への抵抗という眺望のなかで、スコルツェニーによって救出された〈統領〉の牛みたいな、血の気の引いた顔は、ジョニーはあまり見なかった。むしろ、パヴォリーニとその多くの同類たちの顔が、一度も見たことはないのに、銃撃しうる陰画の的として、楽々と想像できるのだった。
被弾した鳥たちが苦しみながら滑空するように、新聞が床に滑り落ちるのにまかせた。「町で新しいことは?」父親はすぐに気を取り戻して、語るという労苦と気高さに取り組んだ。何ひとつ彼に印象深かったことはなかったが、それでも話しだすと気が楽になった。「何も、ドイツ兵とファシストの車が二台、ホテルに着いた、らしい、ことくらいかな。いつだが晩に叔父さんの家までおまえが下っていったというのはほんとかい?実にいけないことをしたものだ。おまえは動いてはならないんだよ。辛抱がいるけど、おまえは動いてはならない。わたしらのことを考えろ、家ではおまえがこの上にいると思うから、心配のなかにも少しは安心していられるのに、おまえときたら……」「ぼくはここにいると気が狂いそうだ!」「なんだって?」と激しやすい苦悩のなかで父親が叫んだ。「ぼくはここにいると気が狂いそうだ!ここでひとりっきりだなんて!それにほんの一分くらい町へ下りたって、いったい何が危険なんだ。」「危険じゃないというのか?おまえは気狂いだ。いままでは何事もなかっただけのことだ!だが、いくらでも悪いことはこれから起こって、わたしらの目から涙の乾くいとまとてなくなることだろう。それにそんなに下りたがって、おまえは、町ではいったいどんな暮らしをしていると思うんだ?町ではわたしらは鼠みたいに暮らして、もう友だちなんていないも同然だし、誰ももう他人を信用しない。わたしらはもう服務中の憲兵だって信用しないし、彼らに出会うと震えだす始末だ。そうして話をすれば、いいか、決まってスパイのことがわたしらの話題になる。ファシストどもがまた頭を擡げたんだ。知ってるかい、ファッショ支部書記の息子とディカットの息子がファシストの新しい学校へ士官学校生徒になりにいったのを?知ってるかい、弁護士と息子が黒シャツ旅団に志願したのを?」「この上にいてどうして知るわけがあるのさ?」しかし、物理的な抹殺という固定観念がたちまち彼を捉えて、彼を雷撃した。あの同国人、いや同郷人たちをどのように処刑するのか、彼はありありと見た。そうまさに、あの悪党どもの党派の軍服を着た彼らを処刑するのだ。彼らは英軍と戦うためにその軍服を着て武器を取ったのではない。彼らはほかのイタリア人、ぼくらと戦うことを決意してそのために武装したのだ。いいだろう、イタリア人は彼らをみな殺してしまうことだろう。イタリア人の手にかかるお蔭で、彼らが英軍の鉛玉用の肉になることはないだろう……「ぼくの先生たちを見かけた?ぼくに会いに来たかしら?」「もう先生方は見かけないが、きっといらっしゃるよ。ほんとうをいうと、あまり嬉しいことではないのだが、おまえがコチート先生に会うのは。彼は無用心にしゃべりすぎるし、それに彼が共産主義者なのは誰もが知っていることだ。」コチートが共産主義者だって?共産主義者?しかし、共産主義者であることは正確には何を意味して、何を要するのだろう?ジョニーはそのことについて何も知らなかった、ロシアと密接な関係があるということ以外には。 「もういけば、遅くなるよ」、そしてジョニーは、町の屋根という屋根のうえの照り返しをことごとく蝋燭消しみたいに消しながら、平地に迫ってゆく不自然な夕闇に、目を凝らしていた。丘は、みな菫色のなかに難破していた。
「そうだな、だけど約束しておくれ、わたしとおまえの母さんに、おまえはもう決してここから動かない、と。もしも遠出がしたいのなら、おまえの丘があるじゃないか、頃合の時間にな。」
ジョニーは約束して、黄昏のなかに流れ去る si floueva 小径を、生来の猫背をなお丸めながら、下ってゆく父親を見守った。
不意の冷気に屋内に戻った。彼はおのれの回りに、そしておのれの裡に、ある心許なさを、ある惨めさを感じていた。そうした心許なさ、惨めさゆえに、すっかり彼はやせ細り、虚弱になって、正常な人間の次元と比べると恐ろしいくらいに悪い状態に陥った、と感じた。それはすべてをもつれさせ、すべてを危機の絶頂へと追いやるに到った、にわかの、騒がしい、性的刺激であった。そのためにも町へ下らねばならなかった。流行遅れ de`mode`s の埃っぽい小サロンでドイツ兵やファシストと出くわす危険を冒しても。それは医療的な蒼ざめたわびしさのなかで汚らわしいが拒絶できないことに彼には思えた。そのことが彼の人間としての惨めさを膨れあがらせ、しかつめらしい無の詰まった唾棄すべき革袋と、おのれ自身を思わせるのだった。
夕べと夜の予知と予測に彼は沈んだ。悪癖ではないが怒ったようにタバコを吸えばもともと少ないタバコの彼の糧秣はたちまち底を突いてしまうことだろう。それにリハビリテーション中の睡眠過多による不眠症、狂った渦巻く思考、強靱な歯を剥きだしの苛烈さできっとまた頭を擡げるに違いない性的刺激……音節に分けて言うかのように、彼はおのれ自身に荒々しく言った。
「兵隊だったころを、おまえは覚えているか?おまえは孤独の欠如に泣いて、共同生活にしばしば吐き気を催していたではないか。密集隊形を取らされたときや、フラッリアが機関銃の仕組をおまえの頭に詰め込んだときに、夢みてた夢をおまえは覚えているか?おまえはひとりっきりになって無拘束 disengage` で、川と丘の眺めのひらけた、およそこのような部屋で、何か英文学の古典をこころゆくまで翻訳することを夢見ていたではないか。」いまはこうした前提と可能性のすべてが整って、武器も共同生活の男たちも遠くに、丘々と、川の向こうに、霧に覆われた、身震いするような、幻の大都会にいた……
握った手のなかに、しかし奇蹟みたいに、マーローの悲劇の一巻があった。強いられた、しかめ面の決意を秘めて腰を下ろし、本を開いて名高い悲劇『マルタ島のユダヤ人』の最初のページを押し延ばした。彼はそれを翻訳するだろう。その晩は翻訳だけに費やされることだろう。視覚的にではなくて、ペンを用いて、初歩的で綿密できつくなぞった書体で、救いの切株みたいな書き方で、紙に書くことだろう。
世間はマキアヴェッリが死んだと考えようと
彼の精神はアルプスの彼方に渡っただけのこと。
そして、ギーズ亡きいま……
足を蹴って、惨めさと不可能亊の炎の上に高く立ち、あの彼の惨めさの虱という虱をページのあいだに押しつぶすかのようにぱちんと本を固く閉ざした。上の階に昇って、吹く風の下の葉叢の水棲の振動に、ピエモーンテの遅い夕闇に、開いた窓を隙間を残して閉じた。即座にしかし儚く宥める、冷たいシーツに横たわり、たちまち睡りこんで朝遅くに目が覚めることに、まるでそれが最大の奇蹟ででもあるかのように、望みをかけた。「ぼくは女が欲しい、ぼくには女の子が必要だ I want a woman, I need a girl,」と、彼は天井の彼方にまで強請した he pleaded beyond the ceiling が、おのれの切願を清めて請け合うかのように言い 添えた。「ぼくが欲しいのは彼女の若々しい無味の吐息だけなのに I want but to get her young tasteless breathing!」
第十六章終り
[Ⅱ]
第十七章
彼はそんなにも間近にまじまじと丘の少女を見つめていたから、その眸の黄金のうすく散った碧玉を顕微鏡を覗くみたいに見ることができたのに、それでも彼女の声は幾重ものフィルターをとおしたかのように彼に届いた。「どう、よかった?」彼女が吃った she stammered,「果てしなく。あなた……あなたってすっごく達者なのねえ。」しかしやがて彼は身を起こすと、叫んだ。「でもぼくはおのれが男だと感じない!」彼女は目を瞠った goggled 。「あなた、自分を傷つけてるわ……」なのになおもジョニーは、少女の言葉には聾で無関心に、いっそう大声で、くり返した。「ぼくはおのれが男だと感じない!」
鉄道の二つのトンネルのあいだの峠をとおって、黄色の痛ましい大饗宴のなかを、彼らは丘から川辺へと下ってきた。歩くのが楽で妨げられない unhindered ときにはジョニーはきまって彼女に先頭をゆずって後ろに回り、ゆたかなくせに痩せた背中にじっと重たく動かないたった一本に纏めたお下げ髪、大きなお下げを注視した。味気ない髪 tastelles hair 、そうして矯めつ眇めするうちに by that vision 、《鳶色 auburn 》という言葉によって英国人たちが何を了解していたかを、ジョニーが悟った色の髪だった。少女はジョニーよりもほんのわずかに若いだけだったのに、魅惑され、引き留められた青春の徴としてあの大きなお下げ髪をぶらさげていた。ゆく秋の最後の太陽が照っていて、延べ板みたいな川面から青黒い強烈な光を引きだしながら、威厳をそなえた年寄りの髪の毛のうえみたいにポプラ林のうえにたゆたっていた。目には見えない一羽の青鷺の散発的な鳴き声が聞こえた。そして水面全体が静けさに満たされていて、ときおり高みの岩場のあいだから白土が崩れて一気に滑り落ちてきてその水音が響くだけだった。彼女が言った。「あたしが女でなかったなら、あたしは女になりたい。その次もまた女に。その次の次もまた女に。でもそれがだめだったら、あたしは青鷺になりたい。」
それから歌った。「あたしがあなたといる瞬間はいま終わろうとしている My moment with you is now ending, 」と、理由はないのに言わず語らずの言及をこめて。するとジョニーは彼女のセックスの意識によって襲われた。彼は彼女とともに、彼女の中にいた。そしてそれは、その日の午後じゅう彼が感じたと思ってきたような、彼女の外にある、抽象的な、霊みたいに宙に漂っているかもしれないものではなくて、具体的な低みにある、現実的なものであって、確認と所有の徴として、彼の手の愛撫を待っていた。そうして彼女は、ジョニーの仕事を巧みな最小限の動きで楽にしてやりながら、薔薇みたいにひらいていった disclosed like a rose 。
いまは何もかもが黙りこみ、青鷺も啼かずに、高い岩場の壁龕から崩れ落ちる白土が凍りついてしまえば、あとはただ流れる水音だけが息を吹き返して、水の正体は溜め息ででもあるかのように、溜め息を漏らしていた。けれども彼らの無防備の肉体には、何の装いもなかった。そしてジョニーはゆっくりと、さらに痛ましく繰り返した。「ぼくはおのれが男だと感じない!」「家に戻りましょう」と、彼女が言った。「丘に。戻って、《カヴァリン・ザ・ウォタフラント Covering the Waterfront 》をかけましょう。」
しかし彼らが膝を起こす間もなかった。
飛行機の轟音が弱音器をつけた巨大な交響曲の自然の構成分子みたいにやって来て、たちまち増大した。自ら抉りだし、異化して、その機械的な本性に勝ち誇りながら boasted 、川向こうの丘々を掠めて、気違いじみて低空に、二機の飛行機が(英軍か?米軍か?)くっきりと現れた。橋めがけて一直線に急降下してき、それから橋が手つかずで重要なのを確認しおえたかのようにまた急上昇して、川沿いに超低空飛行して、岩場を飛び越えるために彼らの真上で再び高度をあげた。だが、その急上昇の下でさえ、木々の葉叢と草地の悉くと、彼ら二人は震えあがった。彼女は膝立ちして、脅えきった指先で空しく身体を覆った。ジョニーが彼女を小さな土手の陰に引きずり込んで、彼女の裸の肌の残りの箇所に両手を広げた。「戻っては来るが、ぼくらには何ともないさ。橋を狙っているんだから。畜生 Damn'm!」
やつらの轟音が再び響きわたって、岩場から逆落としに下るかのように、川床の垂線上を矢のように飛んでいった。再び枝々が悲鳴をあげながら漣をたて、草地がその盲た従順さのなかでやつらに笞を当てるかのように狂いたった。それから、ジョニーはやつらの尾翼が水面から十メートルのところで、禍々しく橋を狙っているのを見た。やつらは視界をすっきりさせるみたいに機銃を掃射してから爆弾を投下した。一発は橋手前の延べ板みたいな水面に落下し、もう一発は川原に落下して岩石の飛沫 flourish を撒き散らした。が、その直後に橋のうえにクリーム状の埃の二つの球根が開花して、確実な、ぞっとするような傷痕を糊塗するかのように、じっと動かなかった。飛行機はとうに川向こうの丘々のうえを、毒針を刺しおえた蜂みたいに穏やかに軽やかに舞っていたが、いまは早くも底無しの虚空のなかに溶けいってしまった。一方、右岸からは町をあげての悲しみの仰天した叫び声のコーラスがふつふつと沸きあがってきた。覚束ない手つき unsteasy handsで、彼女が服を着おえた。「なにも橋を壊さなくたっていいのに!」と、彼女が言った。しかし見よ、あそこに、なかなか収まりきらない砂塵の裂け目のなかに、六つあるアーチの三番目と四番目が破壊されているのが見てとれた。あの畜生めら Damn them!
十月初旬のある晩、あの約束を、コレラみたいに丘の上に隠れ潜む憂鬱を、破った。彼は暗闇のなかで最も異常で安全なアクセスを選んで、奇襲するみたいに町に下った。町外れに出た途端、黒ぐろとした人影が一様の闇のなかにぬっと立ちはだかった。大男だった。そこでジョニーはポケットから両手を出した。だが、巨人はただ火を求めただけだった。見られないように、また見ないように、小さな焔の暈から顔を背けながら、ジョニーは火を貸した。だからこうして、鉄道の土手際に飛び跳ねる大きな動く包み、最初の寒さに飛び跳ねる女を見てしまった。あの乳臭い無様な染みのために、彼は堪らなく居心地が悪くなったけれど、売春宿の界隈から彼は一散に遠くまで駆けだした。
街中は厳格に人けがなくて、人間に関わるかぎりは厳格に暗くされていた。ただ空の余光だけが敷石から青黒い照り返しを引きだしていた。壁すれすれに歩いていったので、封印された家々からしばしば疲れた声や、押し殺した絶望しきった声が、つねに杖の尖端の金具みたいに神経症的なぶつぶつ声をともなって、溢れでるのが聞こえた。広場へと逃げだしながら、一瞬おのれの家を、なかで何も知らずに信頼しきっている両親を見た。躾けよく聞き分けよく安全な丘に潜むジョニーのために、彼らのなした犠牲のまさしく余沢である彼らだけのひっそりとした夜更かしをせいぜい愉しんでいたのかもしれない making the best enjoying of their own solitary wake 。闇のなかにいまにも崩れ落ちそうなおのれの家の正面を視野からかき消して、良心の呵責の臍の緒を引きちぎるために、彼は一気に歩調を速めた。
使い古しの偽装から滲みでる光の刃によってそれと知れる signalled 、近代的な中央広場に面した、グィードの父親のカッフェをめざした。意図的になおざりにされたかのように、店はさびれきっていた。給仕の数は激減し、ぶどう酒や蒸留酒の棚は数知れぬ、あまりの空隙にうすら笑いを浮かべていた。二組のカップルが、いずれも店先を視野に収めるように陣取って、無口に決然と、まるで掟でもあるかのように、トランプに興じていた。彼の応対にグィードの父親が出て、陰気な顔にもろに非難と叱責のいろを浮かべた。「グィードはあの〈九月八日〉から戻ってきました?」
「七日の日に息子は賜暇をえて、女房と私とで賜暇をなんとか延長してもらったのだよ。だから、八日の日には彼は家にいた。まったく幸運なことだったよ……」「いまはどこにいるんです?」カッフェの店主はその青白い顔じゅうを口の上に窄めた──「丘の上にいるんですね、でもどこです?」「代用コーヒーもらえます?」店主は首を横に振った。悪意でそうしたのではなかった。なるほど、店主は即座に彼を追い払おうとしたが、それは彼の父親とあまりに昵懇だったからだ。
「せめてキオーディ先生を見かけたか、教えてくださいな。」いつもならばキオーディは目抜き通りのホテルで食事して mealed at main hotel 、それからこのカッフェに代用コーヒーを飲みに立ち寄るのだが、あの休戦以来どんな習慣もすっかり変わってしまった。幸い、彼はアルベルゴ・ナッツィオナーレで見つけることができる。旧市街のあそこなら、放射状の非常口がいずれも封建時代からの町の迷路に通じていて、そこからは川の前の野っぱらに抜けられるのだった。ジョニーは新たな目的地に向けて外へ出ながら、悲しい安堵をこめて真夏の神々しく愉快な夜々のことを想った。あのころは彼もほかのみなも、いまでこそ死者、捕虜、潜伏者の男たちも、彼が少年であったころにはまだ少年で、町中を群れて遊びまわり、アン(アルベルゴ・ナッツィオナーレ)の界隈は彼らの主な遊び場 resorts の一つだった。一方、別の世代は同じ世代の女たちと土手や丘の上の粗末な寝床へと出かけていったのだった……歩調よく歩いていって、一向に軍隊の足並 gait の垢が抜けきらずに、町なかを往くのではなくて、地下生活の唸りを発する白蟻の巣の上を往きながら、それでも頭上の物音には発作的なまでに過敏になっている気が彼にはするのだった。
先生はナッツィオナーレの一番奥の小サロンにいたが、そこからは古い馬小舎に通じていて、さらにそこから路地をジグザグに往くと土手に出るのだった。彼の切迫した足音に振り向いたときに、キオーディの眼鏡のレンズを乏しい明かりが異様なくらいに赤く燃えあがらせた。キオーディは独りではなくて、Yと一緒だった。Yは半ば友人で、まったく無口な男だった。兵士で、自動車部隊に服務していた目と鼻の先のアレッサーンドリアから逃げだしてきただけだから、逃亡者の旅としてはありふれていて、報告に一行を費やすにも値しない。長年の平地での生活で矯正した山出しの熊みたいな無骨さで、キオーディが立ち上がった。彼を哲学的に抱擁して、現身の彼と再会してとても嬉しいと述べたから、コミュニケーションの予知は壊れてしまった。彼らは腰を下ろして、キオーディは昂揚した議論のなかで彼がおのれのローマ脱出を彼らに報告するのを禁じた。「話しませんとも」と、ジョニーが言った。「ぼくの幸運への負債をすっかり綺麗に清算するために、ぼくのおごりで飲み明かしましょう。」しかし、彼らは応じなかった、もう飲めるような代物は何もなかったからだった……「きみが死んだら」と、キオーディが言った。「きみのためにはパイドーンの言葉を費やしたことだろう。ハーデースに先駆けて、卓越したるは……」そしてみなは苦く harshly 笑った。
重たく惨めな、たぶん取返しのつかない沈黙がそのあとに続いて、ジョニーは古びて縁の欠けた宣伝用の灰皿に長ったらしく丹念にタバコを押しつぶしながら、幻滅してぞっとしたおのれの思い appalingness を隠した。その間にも眼の端で、毛深すぎる両手に支えられた、弁証法的な知性と哲学的な規律が不自然なほどに迸りでるキオーディの横顔に、しぶとく滞る疲労感を捉えていた。「で……コチートは?」と、しまいにジョニーが尋ねた。
自動車の騒音が外の狭い道を激しく揺り動かして、小サロンの壁を地震みたいに振動させた。三人とも中腰になって、咄嗟に何事か理解しようと口もとをこわばらせて固唾を飲んだ。が、やがて自動車は遠ざかって、いまはただ、たぶんおのれのけたたましさに恐慌を来した、つましいガス発生装置付きトラックのずっと毒気のない傲慢な反響だけになった。
「コチートは来るかもしれないし、来ないかもしれない」と、キオーディが言った。「彼が共産主義者だというのは本当ですか?」「つねにそうだったよ」と、即座に、弁明みたいにキオーディが言った。ボードレールとダヌンツィオだけを良く知っていた、あの高校の先生に、共産主義者的な性格をぴったりと重ね合わせることが、ジョニーにはどうしてもできなかった。そしてYはことのほかこの話題に腹を立てているように見えた。「きみは知っておくべきだな」と、キオーディが重ねて言った。「とうに大学では彼のことをコチートフと呼んでいたくらいだ。」ティトーの共産軍を向こうに回して戦った、ユーゴスラヴィアでの体験がコチートに影響しなかったかどうか、ジョニーは尋ねた。「確かに。それどころか、クロアツィアから賜暇で帰ってきた彼に高校で再会したときに彼が言ったことをわたしは決して忘れないだろう。彼はわたしに叫んだ。“きみはザグレブの高校を見るべきだよ!みな出ている、校長も、先生も、生徒も小使も、みなパルチザンだ!”それから町なかではここにとりわけ彼の連隊の四人の兵隊、つまり四人の共産主義者と足繁く通っていた。そのなかの一人についてはとくに覚えているが、真っ黒な四角い顎髭を生やしたトスカーナ人で、民間人のときには彫刻家だそうだが、思うに芸術家としてよりもモデルとして彼はずっと偉大なのではないかな。可能な時間には、公園の二番目のベンチに、彼らはいつも一緒にいて、ときにはコチートがわたしをも招いたものさ。しかし彼らのことは同志と呼ぶくせに、このわたしはたんに友人という扱いだったな。この概念的な区別には注意しておきたまえ。」
それから小休止があって、その間にもYは、われから進んで癩病に罹った知人を目の前に見るかのように脅えまじりの嫌悪をこめて、虚空にコチートの俤を注視しているように見えた。ところがキオーディのほうは、痛ましい忘我のなかにたちまち真っ逆さまに落ち込んでしまったかに見えたけれども、身震いしてから小サロンを戦かせるくらいの大声で言った。「おお、実に興味深いことがあったっけ!いいかな、彼らは、つまりコチートと四人の兵士はだ、あの七月二十五日に、バドッリオが事態の掌握に失敗することを期待していたのだ。そうとも、そうすればまさにレーニンが公理とした本質的状況が実現するからだ。政府が倒れるときには、民衆が蜂起して権力 imperium を奪取せねばならぬ、とな。」「でもそんなのは空しい期待にすぎなかった」と、とくにおのれ自身に辛辣さをこめて、ジョニーが言った。「ぼくはローマでまさしく治安維持の任務についていてあの七月二十五日の晩ほどに退屈しきったことはなかった。」すると、キオーディはあとは何も言わずに、時計を明かりの本流 mainstream of light のほうに向けて、言った。「コチートはもう来ないな。今夜は彼の夕べではなかったわけだ。わたしたちも立ち去ったほうがよいだろう。」と、関節炎を労るかのように、最初に立ち上がった。「家に帰ったら、小一時間ほどわたしのキルケゴールを読んで、それからはるか彼方の奇蹟的な明日まで眠るとしよう。」ジョニーが思い出して言った。「まだキルケゴールなんですか?」「わが息子よ、キルケゴールは一生かかっても読みきれないよ。」そしてYが。「ぼくなんて生噛りですが、……いまの時節にキルケゴールに耽るのは衛生的なことでしょうか?」専門の知識を授けねばならぬ免れがたさに、キオーディは溜め息をついた。「いいかね、苦悶というのは可能性のカテゴリーなのだよ。それゆえ苦悶は不滅であって、無数の可能性、未来への無数の入口から成っているのだ。なるほど、一方では苦悶はきみをきみの存在へと投げ返すし、きみは苦さを噛みしめることになる。しかし、他方ではそれは必要な《跳躍sprung》であって、つまりは未来への飛躍であるのだよ……」
数日後にsome days after, コチートを見かけた。古いカッフェのアーケードの下にキオーディとかつての生徒たちの輪のなかにいて……代用ersatz食前酒の壜が並んで、頭上には十月の光り輝く太陽があって、何もかも調和がとれて心地好い見せかけの同時性のなかにあった。そしてコチートはやって来るジョニーにその眼鏡を向けた。キオーディと同じく彼も目立つ大きな眼鏡をかけていた。しかしキオーディの場合にはレンズが澄んだガラスのなかに瞳を大きく見せていたのに、コチートのレンズはそれを見る者には視野を濁らせる働きをして、いわくあり気な染みのなかに瞳がぼやけてしまうのだった。彼はますますどっしりしてきて敏捷にもなったようで、その頭は獅子としての丸みと輪郭の魅力allureを帯びていた。彼らは痛いくらいに喜びと力をこめて握手したShook hands with a acheful intensity and pleasure. そしてジョニーは新たな魅力を覚えながら彼を見つめた。軍服姿、僧服姿、とにかく私腹姿ではない彼を見ていた。けれどもコチートは以前と同じようにまた振舞いだした。つまり、騒ぎと共感と、彼を高校での人気者にした知的な皮肉のあの切れ味が彼のなかにはまだ残っていた。するとたちまち、コチートが彼の同僚や生徒たちといるよりもあのかけ離れた四人の兵士たちといるほうが居心地がよいとは、奇妙なことに、腹立たしいくらいのことに、ジョニーには映るのだった。
彼らは旧市街の中央広場に、真っ昼間に、最初のカッフェの小テーブルに居並んでいた。しかも危険が減少していないばかりか、確実に増大していたにも拘らず。大都会ではもうほとんど徴兵忌避者たちは一掃されてしまって、ファシストの各紙がかつての光栄ある兵舎が再興されて光栄ある灰緑色の軍服が大量に再び出現したと吹聴していたにも拘らず。それにトスカーナからは、隠れ家を暴かれたある徴兵忌避者が二十四時間以内に銃殺されたとの知らせが雷撃みたいに伝わったにも拘らず。そのニュースはイタリアじゅうに巨大な黒雲のようにとどまっていた。いまでは誰もが、ファシストが何をする用意があるのかを理解したし、そのことは掟の侵害breach of codeにも似て醜悪極まりなかった。それでも彼らはそこにいた。
「あたりまえだ」と、アーケードの日陰insunnyにいるからではなくて、内心の鬱屈の外への反射ゆえに陰気な顔をして、キオーディが言った。「旧式銃を手に一人のファシストがどこかの店に姿を現すだけで、いともたやすくあの青年全員を入隊させて縦隊を組ませられるさ……」「だがな、そいつの療治法なら、いまでは誰もが心得ているぞ」と、高校時代の凛々しいくせにざらつく声にその真髄を挿入した新しい声で、コチートが言った。キオーディはもう口を開かなかったし、ついさっきまで論争していたのは明らかだった。そこで、コチートがまた話しだした。「そうした徴兵忌避者の一人が、彼も旧式銃を手に、あるいは鉈か、ナイフを握りしめて、そのファシストがわがもの顔に振舞った通りで待ち伏せればいいんだ。言っておくが、背後からだぞ。なぜなら、真っ正面からファシストに立ち向かってはならないからだ。やつはそうするには値しない。人間が獣に対して払うのと同じ用心を重ねてやつを襲わねばならない。やつに飛びかかって、やつを殺して、やつの両足を掴んでやつを埋める場所まで引きずっていって、この地上からやつをぬぐい去るのだ。だから、箒の一本も下げていって、われわれの通りの埃の上にやつが残した最後の足跡まで永久にぬぐい去ってやるのもいいかもしれない。」
「それこそいま世にいうパルチザンだ」と、ある元生徒が言った。「きみは相変わらず一番の優等生だ」と、曇った眼鏡の奥で皮肉な満足感を閃かせながら、コチートが答えた。しかしみなは一心に、各人が各様に、新たにイタリア語となったあの新しい言葉を、黄金色に輝く大気のなかでこんなにも凄く素敵な言葉を、おのれの宙に漂う不安のなかで、その重さを量ろうとしていた。そしてコチートが話を続けた。「すべてはパルチザンという言葉の真の意味を理解するかどうかにかかっている」と、キオーディをあんまり横目でsideways見やるものだから、その瞳がすっかりレンズからはみだしてしまった。そこでキオーディが溜め息まじりに無理に言う。「パルチザンとは、誰であれ、いまもこれからも、ファシストと闘う者のことだろう。」このキオーディの定義を即座に受け入れた者たちみなのうえにぐるりとコチートが鋭い視線を走らせた。それから言った。
「きみたちのひとりひとりが間違いなくパルチザンになれると確信している。よいパルチザンに、とは言わない。なぜなら、パルチザンとは、詩人と同じく、絶対言語であって等級づけを撥ねつけるからだ。」ジョニーはキオーディを盗み見した。彼はおのれのアペリチフをいやいやheavy repugnance飲み干していた。するとコチートが。「どれ、よかったら、パルチザンについて、学校式に、テストするとしようか。パルチザンとは、よく狙って、ファシストの急所を狙って、撃つ者だというキオーディの定義を、われわれは受け入れることができるか?きみ、ジョニーよ、きみがファシストか、それともドイツ兵かを見つけたとして、つねにこの定義に敬意を表してその成就fulfilmentのために、きみはやつを撃とうとする。しかしだ、そこにこのしかしが出てくる。やつを撃ってやつを殺すと、二時間後にはその現場かその近辺にファシストもしくはドイツ軍の縦隊が報復に雪崩こんで、銃撃、略奪、放火して、その土地の者ばかり十人、二十人と殺すとする。このような可能性を承知のうえで、ジョニーよ、きみはそれでも平然とやつを撃ち殺すかね?」 「いいえ」と、咄嗟にジョニーが答えると、コチートは眼鏡の奥で笑った。「しんどいが為になるこの話を、よかったら、もう少し続けよう。ジョニーよ、もしもきみの父上がファシストだったとして、しかもだ、きみときみのパルチザン部隊の安全を脅かすほどに活動的なファシストだったとして、きみは父上を殺すことができるかね?」ジョニーは俯いた。が、他の者がいくらか激して吃りながらstammering言った。「ですが、先生、あなたは極端な例ばかり並べている。」「パルチザン暮らしはひとえに極端な例ばかりで成り立っているんだよ。先へ進もうか。ジョニーよ、もしもきみに妹がいるとして、きみはこの妹を使えるかね?この妹のセックスをだしに使ってファシスト軍かドイツ軍かの将校を誑かして、都合のよい場所におびき出して、そこで待ち伏せていたきみがやつを殺す、そうしたことがきみにできるか?」不毛の沈黙のなかでどのみちすでに自ずから叫ばれていたあの否を敢えて口にする者は誰もいなかった。しかしキオーディがその椅子の上で大儀そうに身を起こした。「コチート先生の言いたいことはだな、つまり確固たるイデオロギー的基盤なしにはパルチザンにはなれないということなのさ。自由それ自体では、彼には、もう充分なイデオロギー的構造とは思えないということだな。とどのつまりは、共産主義者にならねばパルチザンにはなれない、と先生はおっしゃりたいわけだ。」
「実際」と、コチートが言った。「そうでなければ、きみたちはただのロビン・フッドになってしまう。ジョニーよ、失礼ながら予想させてもらうと、きみは素晴らしいロビン・フッドになることだろう。しかしロビン・フッドであるからには、きみは最も出来の悪い共産主義者パルチザンよりもはるかに役立たずで、不真面目で、価値のない、いいかね、素敵でない男になることだろう。」キオーディが目玉をぎょろつかせたgoggled。「なあ、コチートよ」と、死人みたいな平静さをこめて言った。「きみにはむかつくよ。イエズス会士と同じくらいにきみにはむかつくよ。」
「だから、きみは幼稚なんだ」と、同じくらいに死人を愛しむ平静さをこめてコチートが言い返した。「だから、きみたちみなは幼稚なんだよ、きみたちみなは」と、コチートはその獅子みたいな頭を横に振りながら、まるで大人が小うるさい子供たちの輪にするかのように、彼らみなを遠ざけるみたいな仕草をした。けれども一人が言った。「でも、先生、どうしてあなたがそんなに腹を立てるのか、ぼくには分かりませんね。ぼくらはファシストを殺すだろうし、一人のロビン・フッドによって殺されたファシストだって、やはり抜きんでて共産主義の大義のために役立つじゃありませんか?」やがてお開きになった。なぜならYが嗄れたhoarsh声でそれでも耐えたユーモアをこめて言ったからだった。パルチザンの本質と目的についてこと細かに論じあっているその間にも、小銃を肩に下げてカッフェの角に現れた最初のファシストによってみな逮捕されてしまう幼稚な危険を、彼らはまさに冒しているのだ、と。そしてキオーディが最後に振り向いて、不精髭でいっそう目だつ疲れた顔で、言った。「少年よ、自由を見失わぬようにしよう。」「で、例のファシストを待ち伏せる武器については?」キオーディがぎょろ目をしたgoggled。「コチートが持っている。〈九月八日〉にコチートは彼の部隊じゅうの武器を埋めておいたんだ。一隊を不意に武装できるぞ。」だが、彼らは首を横に振った。「そんな武器のどれもぼくのものにはならないだろう。ぼくはコチートの後は追わないのだから。」「だけど、そうしたら、武器は?」「武器は奪い取るものだよ、たとえば憲兵を武装解除して!」そして彼らをその示唆の法外な衝撃のなかに、茫然としたままに、置き去りにした。どれほどそのことに奮起せねばならなかったことだろう。伝統的に、何世紀にもわたって後楯であった武器のコンプレックスを克服して引き千切るためには、そして公共の秩序のために必要な神聖な武器を憲兵警察から奪い取るためには……
ジョニーはまたも町へ下った。しかもきまって夜のあいだに、きっかり夜の帳が下りるころに下ったが、もうキオーディもコチートも見かけなかったし、たぶん彼らを探しさえしなかった。
そうしたある晩、彼は抗いようもなく映画館に吸い寄せられて、気概の虫mettleの知らせもあったのに、なかへ入った。まだセクシーな肢体sexy shapeのヴィヴィアン・ロマンスが、異邦人づらで漿液質のジョルジュ・フラマンのどうにも我慢ならない顔に守られた、『盲た美女』がかかっていた。その映画館は、スクリーンまで埃だらけの使い古しで、どんな経営にも固有の衰退のいつもの空気を漂わせていたし、無人に近くて、明かりのつく休憩時間中には、疎らな観客たちが互いに眉根を寄せてfrowningly相手を見て、グラツィアーニ布告の死刑の脅しの下で、映画に興ずるあの狂気を互いに非難しあっているかのようであった。
ジョニーは客の疎らな平土間をはるか下に見おろす高桟敷に坐っていた。時化とフラマン船長の性的狂乱が同時に色あせたその瞬間に、入口ホールで自暴自棄の殺到stampedeと、息を詰まらせた絶望的な息づかい、命令と獰猛さの容赦のない声、突然の暴力の無言の激発にも似た何かが起こった。一人の観客が大きな音をたてて立ち上がり、一斉検挙に雪崩こんだファシストたちに叫び声をあげて、壁にぶち当たり、閂の掛けられた非常口に体当たりした。入口ホールでのあの騒ぎは続いていたが、やつらはまだ客席には闖入して来なかったし、あの下にはある非常口からみな逃げだしていた。だから、ジョニーは救いとなる平土間を選ぶどころか袋小路の高桟敷を選んでしまった不運を思って苦悶せずにはおられなかった。ほかの男たちは壁や開かない扉をしきりに叩きまくって酷い音を轟かせていた。映写技師は、客席の明かりもつけずに、フィルムを打ち切ってしまった。ジョニーは手摺りの後ろ、平土間の真上にいた。その平土間がはるか下で、椅子のあいだでの死か、それともやはり捕まるだけの等しく死を宣告しながらも暫時猶予するdeath-sentencing-and-allowing恐ろしい骨折か、を彼に用意していた。けれども彼はむざと捕まるよりはむしろ身を投げようと決意していた。彼は手摺りを跨ぎ越して、木と石と鉄の歯並びのぞっとする口を大きく開けた物凄い救い主、あの平土間の真上にいた。しかし最後の鉄から両手を放さなかった、なにしろファシストなどではなくて、切符売場での窃盗未遂か何かがあの騒ぎのもとだったから。唐突で、裏切り的で、喚いて激発するものは、何もかもファシストであった。
ジョニーは映画館を走り出ながら、死人みたいに土け色のおのれを見、ゼリー状のjellyおのれを身に感じた。丘への道を歩みだしながら、おのれ自身に腹を立てて、両親に対しては自責の念でいっぱいremorsefulだったし、いまでは永遠の罰として汚れたファシストの誘惑と彼の目には映るヴィヴィアン・ロマンスの肉体を、道すがらずうっと心のなかで粉々に砕きながら登った。もう二度と町へは下るまい、と菫色の夜のなかを丘の上に登りながら彼は考えていた。あの丘をこんど離れるときこそは、彼がもっと高い丘へ、パルチザンたちの大天使たちの王国めざしてひたすら登るときなのだ、と。
章の終わり
フェノッリオ パルチザン・ジョニー〔第一の遺稿〕[Ⅲ][Ⅳ]
[Ⅲ]
(第二部)
第十八章
拳銃は持っていた。だが、それが平たく重苦しく内ポケットのなかにこうも厳めしく嵩張っているのを感じると、一向に頼もしい気がせずに、むしろ苛立たしい異物感を覚えるのだった。もうそれは彼の夢みた身体と一体の銃ではなかった。半ば無人でくさくさする道すがら──いまは顔見知りの人びとはもう、初めのころのようにほかの離散兵や徴兵忌避者に対するのと同じく彼にも、思いやりのある親しげななじり顔を向けなかったし、いまではよそよそしいうんざり顔を振り向けて、遠くで、私と無関係であるかぎり、おまえに何が起ころうと知ったことかという風情なのだった──彼は歩きながら、大いなる日まで拳銃を隠しておく場所のことばかりを考えて、いまのいま、最初の角で、それを使わねばならないとは露ほども考えなかったし、たぶんそんなことはできもしなかったかもしれない。とにかく新しい感覚、往きあう人たちみなとはおのれが異質である感覚を味わいながら、彼は歩いていった。道ゆくあの人たちが心臓の上に、平たく冷たいその表面に仰天して鼓動する心臓の上に、拳銃を携えている可能性は千に一つもなかったし、拳銃のこうした抽象的で隠された硬さとその宿命がおのれの足取りや顔つきに反映しているに違いない、と彼には思われるのだった。彼は異質な者に《映っている》に違いなかった。けれどもやがて、目を覚ました意識が、いまは一挺の銃をある場所から他の隠し場所に移しているにすぎないことを彼に思い出させると、そんな異質性は弱められた光みたいに彼から消え失せてしまった。そうして彼は十一月の遅い午後のなかの何もかもの反映みたいに、灰色で受身な姿におのれ自身に映るのだった。
周辺地へと道を逸れてから、真っ直ぐに川へ向かった。橋と白い岩場のあいだの土手のなかほどまで行って、早くもかじかんだ草地の上で膝の上にうなだれて、目は川面の傷つけようのないヴェールを貫きながら、タバコを一本燻らしたかった(午後に割り当てた最後の一本だった)。しかし最寄りの土手の上に足を運ぶsteppedと、裂かれた橋、そのまだ真新しい裂け目が鋳鉄色の空を背に血塗れになってごく間近に迫ってきて、彼はその眺めに抗いようもなく吸い寄せられてしまった。そしてまた、渡し舟という新たな仕事の眺めも同様だった。それゆえ彼は渡し舟の荷揚げ場まで五十歩のところまで川岸を遡っていった。
青白い川原に、いつになく汚れた人たちがいて、あの渡し舟という魅力的で不確実な新奇さを、中世の空気を、息を殺して、啜りながら喉に吸い込むかのように、見守っていた。渡し守たちはあからさまにおのれを過信して、慎み深さと誇張をまじえながら、働いていた。そして同じ過信をもって乗った人たちは奇異な冒険から下りるかのように下船していた。ジョニーは泥で汚れたまま乾いた丸い石を集めて、石塚の椅子を拵えて、そこに腰を下ろすと、タバコに火をつけた。できるだけ長くそれをくゆらしていたかった、水の流れのなか、渡し舟の仕事のなか、崩れかけた空のなかに淡く移ろう雲のなかに、すべてのなかにあるあの緩やかさでそのタバコを吸いおえたかった。そして大気がこんなに漠としているので、台無しにされたとはいえ、聳えたつ橋のくっきりした輪郭そのものがあの大きな傷痕を憐れむかのようにすっかり霞んでflou柔らかくなって、夕暮れの大気が一気に黒ずんだ川面を縮らせて流れを早めさせ、汀に垂れ下がったポプラ林を呻かせるまで、彼は見つめていた。
いまでは、灰色く黄昏た川原にぐずぐずして、ジョニーとともにまだ残っている者はわずかだった。そして風が途絶えた折には静けさがいや増して、渡し舟の赤い錆止めペイントに、ひっぱたくslammingかのようにぶち当たってゆく川のなかほどの流れの音がはっきりと聞き取れるくらいだった。そのとき川向こうの街道に、欺く音の流動性と軽微さをもって、かなり長い縦隊の自動車部隊の騒音が聞こえた。ポプラ林の陰に隠れて正確に数えるのは難しかったが、二十台以上のトラックだった。そして彼らの色は、乗り組んだ兵隊の色のみならず、彼らの流動体の色もまた、ドイツ軍だった。川のこちら側の二、三人が、やつらを認めて、慌てて町へ逃げだしscrambled off to the town、彼らの噛みつくまっしぐらの足取りの下で川原の小石が遠心的に跳ね飛んだ。するとジョニーといたひとりの男がゆっくりと立ち上がり、歳のほどは定かではない労働者風の男で、頭にはバスクベレーを被っていたが、それがまた被ったまま生まれてきたのではないかと見紛うほどに彼の頭に油まみれにぴたりと嵌まっていっかな取れそうにないのだけれど、さらに近寄ると言った。「まあ、あの下の連中は気狂いか、あんなふうに逃げだすなんて。ドイツ軍は逃げだす者を撃つのだ、とまだわからないのか?」
怕いくらいに無関心に、それでもジョニーが言った。「そいつは本当だ、じっとして、こんなふうにやり過ごすほうが少しはましだ……」あの労働者の見直すと同時に戸惑うような眼差しを、彼は頬に熱く感じた。だが、向こう岸のドイツ軍はまったく何もしなかった。こちら岸で蜘蛛の子を散らしたみたいに逃げだした人びとがやつらの視界には入っていないかのように、ひたすら観光客然と、爆撃された橋と川の真ん中で動きを止めた渡し舟に見惚れていた。危険を自覚したaware乗客たちと渡し守たちの心と筋肉のなかの苦しいサスペンスを、ジョニーは遠目でも見て取ることができた。一人の若者がわれを忘れて艀から飛び込んだ。足から跳んで、頭が浮かぶと、川の本流の運ぶにまかせてやすやすと泳いで、ジョニーのいる川原に上がるのもまだ危険とばかりに、流れのままに遠ざかっていった。すると労働者が小声でせめて屈もうじゃないかと言って、彼とジョニーは川原にうずくまり、労働者は半分のタバコに火さえつけて、狙い撃ちされぬためのように丸くした手の陰で吸った。ドイツ軍は凝視を続けて、その遠く疎らで緩慢な仕草のなかには不測の障碍に対する苛立ちは見られずに、観光客然と、ただ眺めていた。「ドイツ軍がわれわれのほうに向かっていたのなら、おれたちの橋を破壊した英軍はよくやったといえるのだが」と、労働者が言った。やがてジョニーは川の本流mainstreamの下方に目を返して、泳いで逃げた男がすでに陸にあがって、川原の目に見える最後の辺りを慌しく駆け抜けscramblingて、岸辺の森の暗がりに向かうのを見た。いまではドイツ軍はエンジンに再び点火して、いわくあり気に出力を最小限に絞ったままで、その敵意とよそ者らしさを、いくつもの機関の振動からもジョニーと労働者は感じとった。やがてやつらは、まさに美術探訪を予定どおりにこなした観光団よろしくまた出発した。そしてあの縦隊の後尾が、トリーノに向けて広々とした街道をゆくのを見届けたのは、実に間もなくのことだった。あらゆるものが動きだし、人びとも渡し舟も大気そのものも、冬眠から覚めたかのように動きだした。ジョニーが立ち上がり、労働者もいくらかリューマチをこらえるかのようにやはり立ち上がって言った。「やつらはわれわれ目当てではなかった。橋を、敵の英軍の戦果を、観察しに停まったのだ。しかしやつらはいずれやって来るに違いないし、そのときにはきっと陸の方面からやって来ることだろう。」男は都会化されていない機械工の風貌があって、何もかも耐え忍ぶ風情と、ある種の無敵さ、冬の次にくる春ほどに確実な予知能力を示したので、ジョニーはそのことがありがたかった。けれども男が一緒に町へ向かおうと合図したとき、それも言葉で言ったのではなくて足取りで招いたのだったが、ジョニーは渋って、南へ向かわねばならないのだと掠れる声で言った。そしてそのとおりにして、町の厚さだけ土手の上を迂回して、ついで南から町へ入り込んだ。黄昏のなかに昏睡したかのような町並みは、恐怖のせいで見るからに横にだだっぴろくてゼリー状で、まさしく彼の老いた叔父みたいだったし、あの俄なドイツ軍の出現の反響にいまごろになって襲われたかのようだった。司教座大聖堂のロマネスク様式の鐘楼の力強い大厦高楼そのものがゼリーみたいに海抜以下に見えてlooked jelly and under height-level、もはやその衆生救済の永遠の徴はなくて、文字盤の上に長針短針は頽れて、二つの針の影は六時を指していた。
家に帰った。その家は、彼の長い兵役を閉じた短い丘の上の休暇のあとではいっそう目新しく常ならぬさまに彼の目には映るのだった。両親はすでに夕食をとっていて、階段を登りながらナイフとフォークの当たる音を聞いて、彼は気落ちした。彼の無分別に父親は首を横に振るにとどめていたが、母親は起ち上がって彼がわれから進んで破滅しようとしている軽はずみを面と向かってなじった。そこでジョニーは母親を宥める唯一の方法は、危険を小さく言うのではなくて、あけすけに話すことだと悟った。「ドイツ軍を見たよ。」ふたりはナイフとフォークを高く掲げたまま、そのもの悲しい食事から遠のいてしまった。「縦隊全部が、橋の向こう岸に二十分あまりも停まっていた。やつらはまったく何もしなかった。」「で、おまえはどこにいたの?」と、ドイツ軍が何もしなかった驚きを呑み下しながら、聞いてきた。「川さ、こちら岸のね。」
この世で最低の食欲をあやしながら、食卓についた。父親が言った。友だちのボナルディが町の北外れの彼の元ガソリンスタンドでパルチザンたちの夜間訪問を受けた。彼らはガソリンを探していたのだが、中壜二本の溶剤で満足するほかはなかった。それが友だちの持っていたまさにありったけの物だったからだ。「彼らはどんな様子だったの?」と、喉もとに心臓をせりあがらせてジョニーが尋ねた。ありふれた他の男たちと同じ男たちである以外ならすべてがありえた。ずっと不明瞭な声で父親が述べた。彼らは白い服を着て、アルプス・スキー兵の胸あてズボンを穿いていた……「第四軍団の離散兵に違いない。家まで帰りつけなかったか、それとも帰りたがらなかった人たちだ。そしてな、ボナルディの話によると、彼らは聖人の脛どころではなかったぞ。ガソリンなどもはや無いということをどうしても信じなくて、彼を脅して酷い扱いをしたそうな。ドイツ兵やファシストと同じか、それ以上に彼を震えあがらせた、とボナルディは言っているぞ。」頭を振って言った。「いたるところで暴力が溢れて、わたしらはその海原の真っ只中だ。」するとジョニーは、彼の父親やボナルディみたいに老いることの絶望的な悲しみを思った。老いて白髪頭で錆ついた男たち、彼らだって一九一五年の有史前の春には敏捷で高慢で荒々しい青年たちであったろうに。青春の解放のなかで彼らはどうしていたのだろう。敵味方双方から脅しつけられ虐待されるあの渦のなかに嵌まってしまったという彼の父親が導きだした考えにも我慢ならなかった。寄る年波を惨めにも認めて、皿のなかに垂れている父親の頭を彼は眺めていた。
彼の母親がファシスト共和国への誓約について仄めかした。誰かさんはとっくに誓約済だよ。ほんの形式にすぎないのだから。汽車に乗ってブラの本部に行って、誓約して、握手して、何もかも厳かな仲間意識の毒気の抜けた雰囲気のなかで、すっかりフェアプレイで仕上がるのよ。誰かさんはとっくに誓約済だよ。当事者間だけの秘密だのに、すぐに知れ渡っちゃうわね。弁護士だろ、小学校長だろ、トート組織と査証付の契約済の土地測量士だろ……「やつらはぼくの誓約を待ち草臥れてくたばるがいいさ」と、むしゃむしゃ食べるパンの間からout of his munched breadジョニーが言った。平たい声で、母親が言った。「何もそうしろなんて言ってないよ。それにまだおまえの番じゃないからね。いまのところは、やつらは将校たちの誓約を求めているのさ。だけどおまえは将校になって戻ったわけじゃないもの。」
「こんどは何をする気だい?」と、彼が座を立つのを見るなり、両親が聞いた。キオーディ先生を探しにひとまわりして来る、と彼が答えた。「ぼくだってやはりなんらかの接触はたもっておかないとね、何事か機が熟そうとしているのに、ひとりっきりでいるなんて、不可能だし、理屈に合わないよ。」そのあとで帰って眠るけれど、家の自分のベッドでだ。両親の頭が皿の上に揺れたけれども、彼らは叱るでもなく、危険の渦巻きのなかへ身をまかせていった。
外へ出るなり、胸の上の固い圧力で、彼は拳銃のことを思い出した。家にとって返してそれを隠そうと身を翻してはみたけれど、隠し場所をなかなか咄嗟には思いつかずにpuzzlement止めてしまった。こうして拳銃は身につけたままだったので、あの意気消沈させる夜の町の流離(さすら)いも無情なスリルgrim thrillでいくらかは耐えやすくなった気がした。彼はきっとキオーディに会えると思っていたわけではないし、果たしてキオーディに会いたいのかもよくわからなかったHe was not quite sure to meet Chiodi, to be willing to meet Chiodi。暗がりで巡査とすれ違った。その無用の制服を纏って、あんなにも哀れで、あんなにもそのことを自覚していたあの巡査はその非公式unofficialの足取りのなかで、おのれの哀れな無用さを自覚するあまりに人目を忍んでいるかのようであった。
彼はアルベルゴ・ナッツィオナーレへと向かった。ドイツ軍が目抜き通りのホテルにときたま出没するhauntedようになってからは、壁の上塗りを引っ掻くみたいな寒さにもかかわらず、先生がそちらに鞍替えしたのを承知していたからだ。けれどもまさにその道すがら、彼は先にキオーディを見つけた。忍び寄る寒気に悪化しだした関節炎ゆえに、引きずるようなその足取りで、真っ暗ななかでも先生とわかったのだった。そして先生は、手足の動きがとても無意識的で抑えられた、背が高くてほっそりした青年と連れだっていた。シッコだった。火の消えた小さなパイプを口の端から端へ動かしていた。「で、コチートフは?」と、ジョニーがささやいた。「彼はもう出かけたよ、ブラ近辺で、その赤い部隊を組織しにね。」ジョニーの心臓がどきんとしたが、拳銃の堅い冷たさにすぐに収まってしまった。シッコがいなかったら、先生に拳銃のことを話したことだろうし、見せさえしたかもしれない。キオーディが言った。「この厄介な関節炎さえなかったなら、わたしもとっくに今夜から彼と一緒にいたことだろうに。わたしの先決すべき区別は不動のままに残るが。しかし肝要なのは戦いはじめることだ、それからわかることだろう。ところがわたしは冬じゅう足止めを食らわねばならなくなった。わたしは春を待たねばならないのだよ」と、〈終末の日Doomsday〉のあとの最初の春でもあるかのようにそれを言った。「脚さえしっかり動くようになれば。」「なぜブラ方面で?」と、問いながらジョニーの心は再びあの土地を訪れていた、トリーノへの行き帰りになんども見て通過した土地、ナッツィオナーレ煙草工場の左手の赤い丘丘、窯を造るのに向いた土、どの丘も切り立って峡谷canyonsをなし、頂も同じように燃えたつ緑で、その下の赤い地肌が緑の鮮やかさを三倍はひきたてているかのようで、覆われた土地の人目を引くeye-catching景色をつくり出していた。「どの方面でもよいのだよ、ジョニーよ。」「ぼくが丘の上に登るときには、ぼくはランゲの丘々に向かうつもりだ。なぜかわからないけれど、ぼくの父方の血脈はそちらから来ているんだ。」
シッコが何かやるよりも言うのが面白い話があるよ、と先生が告げた。するとシッコがその言葉を受けて、その音節ごとに切る詳しい話を、しかも身振り手真似は恐ろしいほどに倹約しながら、そのほっそりした首をはね上げるリズムに合わせて、何かばかげた話をしかねなかった。彼が言った。「明日の朝、一番列車で、ぼくはブラへ行って、ぼくの立派な誓約をしてくるよ……ジョニー、ぼくを侮辱するのは待ちなよ。午後の汽車ではぼくはクーネオに着いて、二カ国語で書かれた許可証、アウシュ……を手に入れるんだ。」「Auschlanding」と、キオーディが正確に言った。「そうして用意が整ったら、ぼくは〈解放委員会〉のために行動を開始するよ、自由党代表としてね。」いいだろう、とジョニーが言って、よかろう、とキオーディも言ったが、つけ加えた。「きみたち〈解放委員会〉の男たちは恐ろしい時期を迎えることだろう、パルチザン戦士さえ遭わないような。」シッコが控えめに頷きながら、パイプの柄を唇でそっと締めつけて、そうした時期への覚悟はできているように見えたし、透けて見えるような不安は微塵も見せなかった……
やがてキオーディがその脚への寒気、霜を結ぶ石畳に襲いかかる、黒ぐろとした吠えない猟犬みたいな冷気の報いをこぼしたthe black, houndlike mute of cold raiding the frosty pave`。そこでシッコが、町外れの安カッフェに引きこもろうと提案した。安全無類だが、彼自身認めたように、気を惹くものなど無いに等しく、汚れていて、トランプ勝負を頑として続ける者が数人いるばかりで、空っぽの酒棚がうすら笑いを浮かべている……するとキオーディが見事な心機一転ぶりで、より当を得たホールとして優雅な淫売宿を逆提案した。そこでなら、アスパーシア、裸足の遊女たち──《この世で最も裏切らない女たち》──と、セックスゆえの懸念は微塵もなしに、気楽なおしゃべりを少しは交わせることだろう。二人は同意して、ただシッコは、明日のぞっとするような早朝にappalling earliness一番列車に飛び乗らねばならないので、あまり引き留めないでとだけ願った。ジョニーは過去のどんなときよりもはるかに身近に彼を感じた。あんなにも穏やかに、飾らずに誓約を待つ彼。育ちのよい冷やかなこの同じ態度をきっと保ちつづけて彼はファシスト軍士官と対峙し、おのれの誓約をくれてやるかわりに、その自ら買って出た反ファシズムの任務に最善を尽くすために最適の道具を手に入れることだろう。キオーディが言った。「それに淫売宿で罠に嵌まることはあまり心配しなくてよいだろう。ファシストがやって来ても、わたしの考えではやつらはわたしらに何もしないよ。イタリア男の淫売宿的連帯が優るはずだ。そうしてわたしらはみごとな共同ハンドをするわけだ、政治の埒外のかなたで。」笑いながら、彼らは優雅な淫売宿へと向かった。
淫売宿は閑古鳥が鳴いていたし、常連の現われるあてもなかったから、お嬢さん方はみな普段着のままで、ダイニングルームで、タバコをふかしながら、ポーカーをやっていた。ミラーノ女の主は温かくジョニーに挨拶して、先生にはほどよく敬意を表し、冷えた小パイプをしゃぶりやめないシッコをまるですげなく迎えた。女はすたったりの商売に目に見えて気もそぞろだったのに、そこはこの職業の昔ながらの高貴さゆえか悲歎のなかにも自制と品位を崩さなかった。けれどもついに動揺したどんな物売りとも同じようにたっぷりとあけすけに吐露しだした。最初の大打撃は休戦と軍の崩壊だった。将校の旦那方も下士官連中もとんと見えなくなった。二番目のずっと由々しい打撃は、数そのものよりもその示唆するところに由々しさがあって、民間人の来店頻度の漸減だった。「外で逢ってるのよ、かつてなかったほどに外で逢っているのよ!」と、愚痴をこぼした。「戦争のせいだわ。で、誰ももう道徳のことを考えないし、宗教はもう無いわ、だから誰もかも……、娘たちも人妻も。外ではいまでは自由恋愛があって、真っ盛りだわ。で、あたしたちも出かけるの……」「あなたがたまでもな」と、キオーディが言葉を引き取った。
女たちは気落ちしているふうには見えなかったし、小鳥が啄むみたいに短くぱぱっとタバコをふかしながら、呑気にスプルにうつつを抜かしていたけれど、ただときおりまるで何の意図も含まない斜めの眼差しを客たちに投げつけるのだった。とうとうシッコが小パイプを落として、固くなって上座の金髪女に合図した。「違反して済まないけれど」と彼が言った、「でも……どうも実際ぼくは着すぎちゃって……」「わかるとも、それにきみには」と、キオーディが言った。
「最後のチャンスになるかもしれないし。」そしてジョニーが。「断頭台の陰での抱擁か。ブロンドの大女とWith the big blonde.」
栗色の髪の、一番ほっそりして残り二人のうちであまり職業的でない女が、カードを置いてR6の箱を見せびらかした。彼女のあげるという仕草を同僚の陰険で殺人的な視線が截ち切った。キオーディが言った。「きみはドイツ煙草を吸ってるね」と、軽やかに。すると同僚の女が、むろん得意げな目をした生粋のヴェーネト女がそのとき爆発した。「この娘は共和国軍の男がいるんだよ……」「売女」と、ジョニーが清澄な笑みを浮かべて、たいそう心地好く言った。するとヴェーネト女が手の甲でブルーネットの女を打とうとした。女主があいだに入って、たちまちハイピッチでまくしたてた。「お嬢さんたち、また始めないで。やめなさい、このあば……ここには働きに来てるんだろうが。仕事がないから頭のなかに蟋蟀を飼うんだよ。」
ヴェーネト女が言った。「あたしはこの娘の男を見たんだから、違うったってむだだよ。ブラの駅で、乗換え列車を待っていた。む……つらして、あたしが連れの女を見たことないかのように。ところがあたしはこの娘を十三年間も見てるんだよ。おつにすましたつらして、手はいつも半分抜いた拳銃の上に置いちゃって。こんど逢ったらあいつに言っておやり、拳銃をしっかり握りな、どうせ引き金をもう押さえられやしないんだから、てね!」
ブルーネット女はうつむいて、シガレットから立ちのぼる煙に、まるで生贄的な吸入みたいに顔を晒していたし、恐怖でその痩せた肩を目に見えるくらいに震わせていた。「あたしが煮えくり返るのはね」と、太った女が言いつのった。「あたしがこの娘の女でひもだってことさ。この娘を毎晩あたしと一緒に寝かせてやって、何時間でも愛撫してやっていたのに。あなたは承知の上でしょ、お姐さま、あなたはいつも何か疑ってらしたから。でもこの娘ったら……共和国軍に男をこさえて。けれど、パルチザンがやつを即死させる日がすぐにやって来るでしょうよ。そうよ、そうよ、あんたがあたしを密告したってこわかないからね。なぜって、いいこと、あたしはいつだって、あんたの股を掴まえて粗朶みたいに口まで裂いてやるからね。」明かりの暈のなかにいまはとまっている片手の陰の合図からジョニーはキオーディに目を向けた。「みなさん!みなさん!わたしは声を大にしますぞ、落着いて、落着いて、落着いて!陰門ゆえにいかなる悲劇も起こってはなりません。陰門には命令も責任も通用しません。わたしは願をかけます。果てしなくあらゆる類の死者を見ることになるこの特別な戦争が、せめて誰ひとりその陰門ゆえに死なずに済みますように。天の意志が、虐殺は男たちだけに止めて、どの陰門も罰を免れて、差別をたてずに、戦士らを強くし、瀕死の者を慰め、ついには勝利者たちへのまったき褒美となることにありますように。」
「なんてむかつくんだろう!」と、ヴェーネト女が要約して、黙って苦しんでいるブルーネット女の上に肉の石塊みたいにのしかかった。そして女主は、先生に感謝して。「教授は、だってあなたは教授ですもの、極めつきの話をしてくださった。さあ、あんたたちは自分の仕事のことだけ、自分の稼ぎのことだけを気にかけなさい。どのK.も軍服は着てないからね。考えのあるひともなかにしまっておくのだよ。」
ヴェーネト女はもう何もつけ加えて言わずに、ただ手の甲で打つ動きだけをくり返したけれど、こんどはその中断のなかにいくらか労りが、ある特別な配慮がこもっていて、その日の夜にもベッドのなかで続きをして、おまえを明るくなるまで愛撫してやるからねとわからせるのだった。しかし、ちょうどそのとき彼らは、シッコと金髪の娘が数分前から階下に戻っていたのに気がついた。そしてその娘が躊躇いがちになったfaltering声でいった。「あたしはいつもパルチザンたちのためにお祈りするわ。毎晩パルチザンのためにお祈りを唱えるわ。」そしてその固い意志を秘めた言葉に戦きがあって、それは淫売宿の濃く淀んだ雰囲気のなかで羽ばたきにも似ていた。そしてジョニーはおのれがまだパルチザンではなくて、あの娼婦の祈りを享けられないのは辛いことだと感じた。
彼らは別れる前に握手して、キオーディはその哲学的な徹夜へと向かい、シッコはその短い、たぶん懊悩に満ちた、朝の五時には截ち切る眠りへと向かって、ついで凍てつく煙い駅へ赴き、汽車に乗って、敵手であるパルチザンと同じくらいに神話的なファシストの士官たちと面と向かって対峙しに行くのだった。
ジョニーは虚ろで戦きに満ちた、目的のない、ゴールのないgoalless一日に先立つ暗い夜へと歩んでいった。星々がビロードの上みたいに瞬いている重苦しい空のなかに、一機の飛行機がいまにも墜落しそうに、おのれの取るに足らなさを果てしなく自覚しながら、呻いていた。どこの国のものとも知れぬ飛行機で、たぶん現代的飛行士であるネモ船長によって雇われてwaged操縦されていたのかもしれない。あの飛行機は人びとの噂によれば、絶対的な闇への狂信的な切願にかられて、灯火管制に違反する明かりという明かりに機銃掃射を浴びせかけるとのことだった。
第十八章の終り
[Ⅳ]
第十九章
翌日、早朝に、ジョニーは拳銃を隠しに屋根裏部屋へ昇り、そこにそれを隠したまま過ぎる時間を思うと頭がsickening痛んだ。低い屋根の暗い皺になった緩やかな傾斜の裏へと、通れないくらいに罠だらけの狭い階段を登りながら、屋内の遊び場resorts indoorのなかで屋根裏がいちばん満足のゆく冒険に満ちた場所であったころのことを、幼年時代のことを彼は想っていた。頭上にのしかかる苔むした屋根屋根、仕切りや板材の障碍、剥きだしの壁という壁、密で、邪魔されない雀蜂やゴキブリなどの昆虫たち、どうも甲冑の一部みたいな散在する板金やブリキ、ゆっくりと飛びくる一群の矢みたいな雀蜂の羽音の横切る生温かく淀んだ空気、いるなんて考えられないくらいの女たちの不在、何もかもが、あのころは、屋根裏を冒険に向いた舞台か、それともせめて監視と戦闘以外に何もする必要のない世界のとある場所として見なすように彼を仕向けていた。しばしば大伽藍の堅くてどっしりとした壁を見下ろす、教会内墓地の真上の目の眩むような高さに開いた天窓框に陣取って、引きずり込まれるように易々と空想に浸って、多様な攻撃を有利な地点から撃退する城方になりきるのだった(彼の生来の気質からして、城方のヘクトールがぴったしだった)。結局、彼は白人を射殺すことを考えられはしたが、良心が咎めて狙いが外れてしまうのだった。そこでアメリカインディアンやアフリカの黒人を攻城方にしてみるのだが、それでもことはなおも完全ではないしまるで心穏やかではないheart-setting quite。最も目だつ猛悪な出陣化粧war-paintsを攻城方のアメリカインディアンや黒人に塗りたくることでやっと落着いたのだった。しかし、いまは白人間の問題だ、とおのれに言いながら、彼は綿にくるんでボール紙で包んだ拳銃をとある大梁の溝に隠してその詰物が発覚しないようにカムフラージュして、インテリア的な空想力を働かせて工夫する楽しみさえ覚えた。しかし、いつ役に立つかも知れぬ拳銃をむざと埋めているのだという思いが、何もかも台無しにしてしまった。
屋根裏部屋は、抽象的で人工的な、冷蔵庫じみた寒さだった。狭い階段を降りながら、その段段が子供のころの歩幅にはぴったりだったことに思い当たった。いまは下りながら、彼の足は段と段の間のわずかな高低差とその切って落としたような急さ加減に尻込みするのだった。
彼の父親が、悄気ながらも健気な付添人の顔つきで、ちょうど買物から帰ってきたところだった。彼の母親は加減が悪かったし、世界大戦がまるごと彼女の肝臓にのしかかっているようで、もうほとんど動き回らなかったし、不治の病を宣告された脇腹に強く片手を押し当てないではもうほとんど何もしなかった。けれども今日の両親の落ち込みぶりは破滅的で、手のつけようがなく、どんなカムフラージュも通用しそうになかった。その無自覚な解釈法的なやり方ゆえに、ゆっくりと体質的でわざとらしい父親の話ぶりには先験的な苛立ちを覚えて、ジョニーは母親から事情を聴こうとした。今日の母親は、肝炎による差し込み以上の何事かによってうちひしがれて口がきけなかった。いまは父親の無表情な綺麗な顔が事情を明かそうとしていた。「おまえは昨日の夕方、ドイツ軍の縦隊を見た、そう言ったな。」「ぼくは見たから、そう言ったまでさ。」「しかしやつらがどこからやって来たのか、知っているのか? 知りはすまい。B…からだよ。おまえが小さかったころ、わたしらが五〇九を持っていたころ、わたしらといっしょに、おまえはあそこを通ったことがある……」「ドイツ軍がB…で何をやったんだ?」「報復だよ。」
あの村の大岩に拠ったパルチザンたちがやつらになしたわずかばかりの死者のために、翌日やつらは村を焼いて、殺して、掃蕩して、掠奪して……「二人の司祭までもだ、うち一人はどのみち火に巻かれて殺されたことだろうに、それを炎のなかに掃射して撃ち殺したんだ。」
ジョニーには昨日の眺めが、その意味を明確にされるにつれて、恐ろしく位相がずれてきたし、それでも岸辺に停めた車輛のなかから顔を突きだして、予定外のあの夕暮れの停車のなかで、物静かに観光客然と風景を眺めていた報復者たちの眺めがなおもくっきりと目に浮かぶのだった。そしてまた、ドイツ軍に戦争ごっこを挑む、あの無自覚のパルチザン射手たちを何よりもまずin primis憎悪する両親のあの歴然とした傾向も恐ろしかった。母親が苦しげに動いて買物を引っ張りだした。
「神さまはやつらをあたしらから引き離しておいては下さらない、彼さえも。ジョニー、すぐに丘にお戻り。」
十二月に入って間もなくの日々に、何かが、たとえそれが半ば駆引き、半ば暴力の何かだったにしろ、極めて速くに起こった。その日ジョニーは幸運にも町の城門の外の従兄弟の家にいて、完全に監視下の隔離seclusioneという殺人的な倦怠からわずかでも従兄弟を救いだそうと努めていた。なのに叔父は奇妙にも病的なくらいに察しが悪くて、百度目の『レ・ミゼラブル』通読に没頭していた。それが、引退した保守主義者の叔父を、そのソゥシャルマキシマリストとしての裏切られた青春に立ち帰らせる唯一の変わらぬモチーフであった。彼らは曇った窓をとおしてかちかちの丘の斜面を下へ、町の青白い城壁まで見下ろしていた。ラジオの箱がヴォイス・オヴ・アメリカの催眠的な待機のなかで震えて、ときおり叔父は大きな頭をその本の中の本の擦り減ったページから擡げて、前世紀への讃歎と今世紀への嘲笑ゆえに震え声でのたまった。「ヴィクトール・ユーゴー。このような作家はわたしの時代にしか生まれなかった。」すると二人の従兄弟たちは大慌てで賛同して、叔父を黙らせてto stop him not to break、二人だけのはち切れそうに詰まっていながら空っぽの脳中を堂堂巡りする工作に専念するのだった。
何もかもがこうした眠気を催す、しかも神経症的な一刻に、町の立方体の囲いのなかで起こった。グラツィアーニ布告に答えようともしない徴兵忌避者たちを捕らえるために、布告を部分的に適用して、共和国軍の強力な一隊がにわかにブラから来襲したのだった。予想されたように用心深く徴兵忌避者たちは姿を晦ましていたから、やつらは将来の酷い結末にわが身を委ねないように必死になって、出払った徴兵忌避者の責任を留守家族にまで拡大して、脅えて険しい目つきの憲兵たちの協力をえて、何十ものdozen of them家族を町の留置場に連行して、心理的=感情的圧力の避けられぬ結末の様子見を決めこんだ。午後の早い時点で、共和国軍は飼い馴らした町を後にして、監視の役目はブラから派遣した一隊で強化した土地の憲兵隊に押しつけたのだった。
六時ごろに田舎家に、ジョニーの母親が初歩的な泰然とした筆跡で書きつけた手紙が届いた。絶対に動いてはだめ、脅えてそれでも沸き返っている町には下りてこないで、憲兵たちは脅えているだけに情知らずだから、叔母さんのところに無期限に厄介にならせてもらうよう頼みなさい。
ジョニーは夕暮れの暗がりのなかを、擾乱の大きな神秘的な箱に近づく刺激に浸されながら、即座に町へ下った。環状道路の並木が嵐のように嫌な音をたてて、不自然に激しく揺れ動いていた。アスファルト道の背後に追いすがる足音を聞いて、そちらに向き直った。彼もおのれの男としての秤を取り戻そうと、家を逃れ出てきた、ルチアーノだった。一瞬にして彼の横に並ぶと口を噤んで、決然と、信義に厚く歩いていった。ほかの男たちがゲームのルールを、すべて何世紀も経た掟を破ったからには、彼らは町へ下りて見て、抗議し、違反をぬぐい去らねばならないのだった。
町外れの通りはどこもまったく人けがなくて静まり返っていたが、町の中心部からは沸きたつようなざわめきが、それでもひどく心臓に堪える音が漏れてきた。そして町の舗道の上にファシスト軍の痕跡をなぞる感覚は、神秘的で 心臓に堪えた。腕ずくの行動が避けられぬという自覚がすでに十全に、彼らの筋肉の隅々まで、諦めにも似て、強張るくらいに行き渡っていた。ジョニーは、家族の脅しと涙の障害を越えて初めてまた取り出すことのできる、隠した拳銃のことを思って歯噛みした。従兄弟が言った。「制式拳銃をぼくが持っているよ。」
中心街では、まるっきり若い人たちの、フェンシングみたいに飛び跳ねる鼠みたいな動きがあった。そこに混ざり合っている顔々のなかにはとくに顔見知りはひとりもいなかったのに、みな若くて町の人間だった。彼らは警察憲兵に腹を立てていて、いまは民衆の口伝えのありとある形容辞と侮辱に加えるに新しい、はるかに由々しい《裏切り者》という罵りを浴びせかけていた。ほとんどみな武器を、拳銃や長大なピストル、最新型や旧式銃を手にしていて、背中にリンパ腺腫みたいな手榴弾の脹らみを見せている者もいた。喚声や憎しみよりも、即座の了解、流血の合意に、彼らは酔っていた。彼らのなかの最も年配者、どう見ても五十歳には届かぬ男が、ほかの男たちはみなとうに牢獄襲撃と脅したりすかしたりで投獄された家族たちを解放する策を練っていたplannedというのに、あらゆる警察への生来の憎しみをこめて、けれども商品市での掛け声みたいに陽気に、憲兵たちを呪いつづけていた。
誰もが一斉に口を開いたが、それでもみな奇蹟的にも、迅速に完全、明白な合意に合流していった。大多数の者は家族の遺物か、それとも奔流となって逃亡した第四軍団の土まみれの遺産かで武装していた。広場に民警団長がその太って高血圧症で藪睨み、擦り切れた革脚絆の上にのろくさ歩く、勲章やら総やらが夜目にも輝く姿を現した。片手を上げると、最も親身な声を出して言った。「諸君、解散なさい。諸君、私の言うことを聞いて、解散なさい。むろん、これは命令ではなくて、家長としての忠告だ。諸君、家に帰りたまえ。」どっと大笑いが彼に答えた。いくらか辛辣さの水脈をまじえた、まっさらの哄笑だった。しかしあの男はそんな笑い声の下でよろめいた。フットボール罰金の守護聖人、町警察の第一人者がそのけちなpetty制服姿を、停止信号stopみたいに、どんな将軍の記章の上にも決然と唾を吐きかけようという者の前に、立ちはだからせた。屈辱感がその声を励まし、ぐらつくtottering姿勢をしゃきっとさせて、最前の忠告の代わりに半ば命令を発した。しかしそのとき夜の集団のなかから一人の少年、たしかに庶民の家々(あの悪臭を放つ谷川に面した避病院とカスバの混ぜ合わせ)の一匹の大鼠だ、が進み出て、十九世紀の代物じみた目を疑うばかり長大なピストルをまえに差し延べ、その撃鉄が大袈裟な、血も凍るかちりという音をたてた。小柄な少年が銃口を官憲のofficial腹の真ん中に突きつけて、回れ右と命じて、こんどは腎臓の上に長大なピストルを突きたてて市役所のアーケードまで歩かせmarshalled、防空団を思い出させるUMPA remembrance哨所に男を押し込んだ。「また外に鼻面を出したら、おまえに禍あれ!」みなは素っ気なく短く笑った。いまは憲兵たちの番だった。
彼らは憲兵隊舎に向かったが、一度も振り返らずに、自分たちの数には驚くほどに無関心だった。人びとは〈九月八日〉以来のわれからの病的な冬眠から否応なしに追いだされて、戸口や窓から身体を突きだしていた。どの戸口からも若者たちが大きな人の流れに合流してゆき、年配の男たちは不屈の無言で頷き、ほかの男たちは用心深く抜け目ない声で用心深さと抜け目なさを助言していた。中央広場ではほかの集団が東西南北の通りから進みきて、合流して口数少なく同調して固まった。肘突きあわせてジョニーと並んだ少年は声価の高い狩猟用ライフル銃を肩に担いでいたので、またしてもジョニーはばかげたことに隠してしまったおのれの拳銃のことを思って歯噛みした。
憲兵隊舎に到る前のこれで最後の通りを彼らは進みゆき、弾力のあるひと固まりとなって、両端の少年たちは建物すれすれに歩いて、窓辺から身を乗りだして、色目を使いながら、性的に昂奮している女たちの顔を掠めていった。みなの先頭を切って進む少年は、メガホンを振りかざしていた。
憲兵隊舎は孤立した緻密さのなかに嵌めこまれていたが、黒ぐろと密閉されて、いまではこの世で最も淋しい建物、月の砦みたいに映ったし、死人の分身みたいにその陰気な影をくっきりと、十二月の月夜の白い路上に落としていた。すぐに突き当たりの球技場の柵に阻まれて、四メートル道路にぎっしりと壜詰めになって、誰もかもが正面に陣取った。おのれの持ち場あるいは足場footholdingを取って固めながら、ジョニーは思った、もしも憲兵たちが憎しみか、それとも恐怖にかられて、連射したなら、皆殺しになるぞ。そしてルチアーノはそのことを大人の大きな声で滑らかに言った。けれども誰もコメントも移動もしなかったし、あのどん詰まりの密集陣のなかで各人が独りだった。そのうちにあの見知らぬ少年が早くもメガホンを口に当てて、隊舎正面の手前の前庭front-garden、残忍な正面を飾るばかげて信じがたい緑の愛嬌を囲んだ密な鉄柵めがけて、武器みたいに掲げた。
「憲兵たち!」
その声は、近距離からの一斉射撃よりもずっと致命的に震え上がらせるように、壁に窓の鉄格子に跳ね返ったし、メガホンが少年の声を太らせて、その声量を不自然なものにしていた。しかし完全な沈黙が隊舎をなおいっそう孤立させて、強化した。
「王-国-憲兵たちよ!」
まだ返事はなかったけれど、盲格子からは風にそよぐ葉枝みたいに何挺もの銃がこちらを狙っていることは容易に想像がついた。
「憲兵たちよ、ぼくはきみたちと話しているのだ。ぼくの声がきみたちに聞こえていることは分かっているんだぞ、憲兵たちよ。ぼくらはただ投獄された人びとを解放したいだけなのだ。ぼくらに監獄の鍵を渡すか、それとも看守たちに電話してくれ。きみたち憲兵は、何も痛い目には遭わないことだろう。ファシストどもがしでかした卑劣な行為だったことは、きみたちもぼくらと同じくらいによく知っているはずだ。だから、ぼくらはその行為だけを無効にしたいのだ。さあ、憲兵たちよ、待っているのだから、ぼくらに返事をしたまえ。」
何もない、さらに何もない、ついに一人の少年が辛抱しきれなくなって、建物正面を狙って、鉄柵の上を掠めるように手榴弾を投げた。けれどもずっと手前に落ちて、庭の若い桜の木を直撃して赤い暈で包んだから、若木はその刹那、X線に照らしだされたかのように闇のなかに浮かび上がった。すると、隊舎の中二階から警告の機関銃が高めに一連射されて、球技場の遠くの石壁に当たって潰れた。銃弾は真っ白な埃のなかに凍って落ちたdropped。一人の男がメガホンを少年からひったくって囲いの低い壁の陰に駆けこむと、メガホンを潜望鏡みたいに高く構えた。彼の声は大人のものだったし、メガホンの変声作用さえもその生まれながらの説得力と、その生来の駆け引きの手腕を奪いはしなかった。「憲兵よ、おまえらはみずからの運命を徴したいのだな。機関銃などわれわれには痛くも痒くもないぞ。われわれは小童ではない。われわれはパルチザンだ、汚点を拭い去りに町へ下りてきた、山のパルチザンだ……われわれにも機関銃があるし、憲兵よ、大砲も、装甲車もあるぞ。もしもおまえらがわれわれに攻撃を余儀なくさせるのなら、一分以内に片をつけてやる。だが、そのときにはもうおまえらの言い訳は通用しないぞ。分かったか、憲兵?われわれはパルチザンだ。われわれの仲間には、おまえらの戦友、憲兵たちもいるぞ。」言いおえるなり、みなを振り返って、あの虚仮威しbluffの評価を知りたくて、男は呆れるほどに焦れた顔を見せるのだった。
沈黙の軋る音が、沈黙の原子たちを電子的にフライにする音が聞こえた。やがて隊舎の扉のカシャッという音が聞こえて、月の光と同じくらいに強烈に照らしだされてほとんど目に見えない一人の人影がそこから出てきた。懐中電燈を振り回して、全身に明かりをふり撒いておのれの将校の軍服を示すと、玉砂利の自暴自棄の軋る音のなかを、鉄格子の門まで進みきた。メガホンの男が彼めがけて歩きだした。聞き取りにくい男の話し声が聞こえたが、将校が懐中電燈を彼に向けようとすると、きつい口調に変わったし、将校が集団のほうへ向かおうとすると手荒く引き留めるのが見えた。彼らの話し声はぽんぽん届いたけれど、沼地から吹き寄せる突風みたいに分かりにくかった。合意に達しなかったに違いない。なぜなら、決闘を控えた者たちのリズミカルな足取りで、二手に分かれたからだ。あの男は戻りながら、高い声を張りあげて言った。「総員、撃ち方用意! 装甲車、前進!」
ブラフの見破られる寸前に、憲兵隊が降伏した。叛逆者たちが庭に侵入し、目に見える武器は身に帯びていない憲兵たちは無関心を装って隊舎の壁に向いて並びながら、怒りでぐらつく手でタバコに火をつけた。一分もしないうちに、あのタバコの仄かな明かりで、彼らは気がついた。山から下りてきた、本物のパルチザンなどではなくて、小童たち、たいていはしょっぴいて獰猛な顔で怒鳴りつけて度胆を抜いて小便をかけてやるほどの悪童たちが、家にあった滑稽な遺物で武装しているだけだ…… そこで彼らは俯いて顔を胸に埋めようとしたけれども、それでも恥辱と遺恨を、ブラフに乗せられた火傷を糊塗するのには足らなかった。秩序を守る俸給生活者である彼らの運命を不憫に思っていたrelentedジョニーは、こうした汚らわしい曝露を目にして、再び硬化した。それでも仲間の一人が、三十歳を越えた男が、ほかの憲兵たちがみなタバコをふかして哀れにもむっつりしているのをいいことに、一人の憲兵を掴まえて殴って蹴っているのを見ると、割って入った。「放してやれ。」「おれの親父の分だ!」「こいつはおれの親父の分だ!」「きみの父上に彼が何をしたのだ?」「そうだよ、おれがおまえの親父に何をした?」とその憲兵が愚痴をこぼした。「おまえは何もしなかった。だが、ほかの憲兵どもが、おまえと同じ憲兵が親父をやってもいない盗みのかどでしょっぴいて白状させようと砂袋で代わる代わる胸を叩いたのだ! 以来、親父は死ぬまで咳をしつづけていた。」
そうした事実は匕首みたいにジョニーの胸をえぐって、彼が血と肉から成る男ではなくて、本の紙の繊維から成るベニヤ板みたいにおのれ自身に映るのだった。しかしもうすでに時間がなかった。全てを要求するallcalling本隊が監獄のほうへ歩きだし、その真ん中にあの将校と三人の憲兵が取り籠められていた。将校は盲たみたいに進みながら、自らがしっかりと取り籠められた集団の案内に信頼をおくのも止むを得ないかのようであったし、早くも音をたてて喘いでいた。
ここまでは何もかも町に属する出来事であるかのように見えた。とある町の若者たちの集団がひと騒動起こしてひとえにその町に犯された不正な行為を改めようとした、と。だが、牢獄へと向かう道のなかほどから、奇蹟にも似て自然発生的に同時に『マメーリの讃歌』の歌声が湧き起こった。まるで遠くから、囚人たちと看守たちに知らせるかのようであった。しばらくすると、憲兵たちもコーラスに加わったけれど、声は出さずに口を動かしていただけだったかもしれない。
彼らは監獄と隣接する教会のあいだの狭い道に堰き止められて讃歌を歌いつづけながら、高い塀のなかでも再び讃歌をくり返し歌っているのを耳にしたし、その間にも将校は鉄鋲の打たれた大扉を叩きつづけていた。看守たちは納得しないばかりか、覗き穴から覗いて将校を確かめようとさえしなかったし、いくつもの拳銃に押されてあの将校の言うことはみなあべこべに解釈せねばならないと思っていた。讃歌は荒い息遣いのなかで霞んでゆき、短気な喚声に喉を譲った。看守たちは扉を開けると、両側に身をこごめて、勝ち誇った集団暴走stampedeに巻き込まれまいとした。数十人の検束された人たちが、監房への悪寒と監房の不足ゆえに、狭い中庭や階段にとうに集まっていた。互いに抱きあって、キスしあっていた。「ジョニーよ、ぼくの母さんにキスしておくれ、きみを見たがっているんだ」と、徴兵忌避者のひとりが言った。背中じゅうをポンポン叩かれながら、ジョニーは言われたとおりにした。解放された人びとはみな口々に看守らはよくしてくれた、物分かりがよかったし、とても人間的だった、としきりに言った。あの将校は、むせた声で、とくに誰にというでもなくみなに言っていた。「後生だから、気をつけて、一般囚が出ないように、気をつけて!」監獄の衛兵たちは、悲鳴を上げて、すっかり浮き足だって、汗だくの南イタリアの小男たちは、彼らにはよく知られて他の大多数には閉ざされている地の利を活かして、到る所に這っていっては、合掌して、職務と命令を呪って、その夜の着想と出来事と当事者たちを祝福して、方言で話している者に彼らが分かるようfor their ears' sakeイタリア語で話すようにと空泣きをしながらsnivellingly頼むのだった。
硝酸塩を含んで悪臭を放つ石塀を背にある男が話していた。「成さねばならぬことだったし、上首尾だった。しかし、その結果、招く事態というものがある。ファシスト軍はこれを軽視できないし、さもなければ彼らの負けだ。大規模な報復が二十四時間以内にあると覚悟せねばならない。あの将校にはわたしらは何もできないが、彼は隊舎に戻るなり、電話に飛びついてファシスト軍に報告に及ぶことだろう。」疲れ切って、いまにも倒れそうで、まるで好戦的でない彼をちらっと見て、まさにそんな電話をするには彼は最後の力を振り絞らねばならないだろう、と彼らは感じた。「みな丘の上に登って眠るほうが少しはましだし、あるいはせめて泊まるところを変えるくらいはすることだ。そうして明日は一日じゅう姿を隠しているように。」
何もかもが終わったし、いまでは残っている者たちはわずかだった。勝利と自由の讃歌が静まるsubsidingにつれて、立ち去りがちになり、一般囚と看守を中に大扉が再び閉められるように、彼らは狭い中庭から出た。最初の大きな蜂起のあとの心地よい疲労感に浸りながら、They tottered a little彼らはいくらかふらついた。ほんとうに大きなひと揺れであったし、あの将校は建国いらい何世紀にもわたって揺るがしえなかったイタリアそのものだった。信じがたいことだったが、真実だった。「あと少しきみと歩いてゆきたいところだけれど、ぼくは疲れてしまった」と、彼は従兄弟に言った。「明日、丸一日過ごしに、丘の上のぼくのところに来てくれるかい?」
彼は家路についた。これまで一度もそんなふうに歩いたことはないくらいにゆっくりと歩きながら、うわべは倦怠感に包まれて、心のなかでは微笑め、しどけなく、ばかみたいに、とおのれに言い聞かせていた。北国の十二月の凜とした寒さのなかを、五月の終わりころの気温の釣り鐘状のカプセルにすっぽりと包まれたかのように歩いていった。家に着くなり、コップ一杯の水を一気に飲み干して、その冷たさが彼を騒ぎたつ夢からすっかり覚ましてくれた。廊下に出ると、両親の寝息が代わる代わる続けて、聞こえてきた。彼は立ち止まって、両親の夜のあの息吹の魔法の下に長いあいだ立ち尽くしていた。「ぼくは両親の寝息を気にかけたことは一度もなかった。いつの日にか、消えてしまうこの寝息を……」両親はこんなにもお人好しに眠っている。なのに彼はその間にもおのれの人生を生きていて、公権力とその施設を、はるかに防備の固い相手が無力のときに、実質的には武力攻撃して…… 父親の寝息の揺るがぬことには信用がおけたけれども、母親の寝息となるとそうはゆかない。彼女はいつも片目だけつぶって寝ているくらいだった。実際、彼が両親の寝室の入口を通りすぎようとしたときに、彼を呼んで、身体は起こさずに、彼に尋ねた。何があったのか、大騒ぎが聞こえたし、大きな歌声や拍手までして、でもたぶん幻聴だったかもしれない…… 「何が起きたの?」「何も起きなかったよ。」「それでも……」「もし何かが起きたのなら、明日の朝になれば分かるさ。」「明日の朝……」「眠ってしまえば、明日の朝なんてほんの一瞬後のことだよ。」
床について、うつ伏せに寝て、柔らかなベッドの上で、かつてないほどに重さのあるわが身を感じて、そのときほどに彼はおのれの大きな重さ、おのれの驚くべき男としての具体性の、はっきりとした可塑的な感覚を覚えたことはなかった。
朝になると、町じゅうが前夜の武力解放のことでもちきりだった。そしてくすぐられた空想力が優ったかのように、すべての手柄と責任は幻でも真実の高い丘の上のパルチザンたちに注がれて、実際に装甲車だって繰り出していたし(機銃を回しながら、町の城門際でその動的な静止状態のまま待機しているのを、誰が見なかっただろうか)、山岳兵の将校たちが指揮していて、そのなかにはジョニーという中尉もいた…… 「おまえそこにいたの?」と、あるかないかの疑問をこめて、母親が尋ねた。ジョニーは片手をひらひらさせて、おのれの参加の度合いの軽さとその結果の及ぼすものへの懐疑を分からせようとした。ちょうどそのとき町役場の取次ぎ頭が訪れてノックした。教会の古い宗派の男で、とても有能で慎重でバランスのとれた男なのに、取扱注意の区分を再び開くのにすべての終わりを待たなかったのだった。話したいのはジョニーの父親とだったけれども、ご家族おそろいの場でお話ししてもいっこうに差し支えない、こんなにも卓越した、立派な……不幸な家族であってみれば。老人が《不幸な》と音節を切って言ったときに、母親の手のなかでラバールバロ酒の壜が震えてチンチン鳴ったけれども、いまは老人は微笑みながら、白い手をひらひらさせて詫びていた。彼が言った、前夜の出来事のゆえに報復を覚悟せねばならないが、彼の知るところでは、報復は町の二十人ほどの人士を、無期限に人質として、一斉逮捕することで実行されることだろう。そのリストはもう仕上がっていて、ファシストの老弁護士チェルッティによって、いまや彼が若返ることになった遠くの黒シャツ旅団に入隊する前に、裁判所の者に手渡されることだろう。何もかもあらかじめ決められていて、各逮捕チームが何時に動きだすのかも彼は知っている。「分かりました、ありがとう、ですが……」と、ジョニーの父親が不明瞭に言った。「あなたはリストの五番目ですぞ」と、そのとき取次ぎが言ったが、声は宥めるみたいだった。「わたしが?」「あたしの夫が!?」「ぼくの父が!?」「でもなぜ?」「社会主義者だから。」「このわたしが!?」「あたしの夫が社会主義者!?」
ジョニーは、激しやすい涙の岸辺を洗う、ヒステリックな笑いの発作に見舞われてしまった。彼の父親が社会主義者だって! よかろう、父親がそんな話までするごくたまさかの折りに、耳を傾けてみれば、ジャーコモ・マッテオッティの暗殺はどうしても父の腹に据えかねることだったし、かの〈主義に殉じた人〉の黄昏派的なポートレートと《私のなかの思想は死なない》とはときおり父を途方もなく感動させる偉大な力を持った唯一のものであったかもしれないが、だけど……社会主義者だなんて! 父親は沈黙して、たぶん遠い昔の霧のなかからチェルッティ弁護士の邪悪な老耄顔をまた釣り上げようとしただけかもしれなかったが、母親は呼吸困難と肝炎の発作に見舞われた。しかし、口あたりのよいラバールバロ酒の油を注されて滑らかに快くなった声で、宥めるように柔和に、取次ぎが割って入った。「後生ですから、発作など起こさないで! 他愛のないお喋りではありませんが、悲劇でもないのですから。私の言うことに耳を傾けてください。私が忠告する小さな犠牲を払ってください。〈九月八日〉以来あなた方の息子さんが身を隠されていた丘の上の小別荘に、三人とも、みなさんで向かってください。」そういう彼の考えに、三人とも一緒に頭を擡げた。なるほど、司教区の男がそう言っているのだった。「一週間以上はそこに留まらずともよいってことだって、充分ありえますぞ。家の戸締りをよくなさっておいてくだされば、私が日に一度は見回って、何事もないかどうか確かめる、とお約束致します。しっかりとお約束しましたぞ。」
その場で決まったし、彼女にとっては世俗の叡知の裏切ることのない師匠である教会関係の男たちへの全面的な信頼をこめて、決めたのは母親だった。「このことを知るのは私と司教総代理さまだけとなるでしょう。」と、取次ぎが言った。「司教総代理さまもこのことを承知なさっていてくださることはあたしの願いです。」と、その自覚のない儀礼上の天才ぶりを発揮して、母親が言った。「一週間以上はそこに留まらずともよいとよろしいのですが、私の知らせのあるまではそこを動かずにいてください。私の報せを待つのですぞ。」と、感謝の言葉を躱しながら、辞去していった。
ジョニーは母親に雪靴だけを薦めて、しかもかなりの躊躇いをもってそう言ったのだけれど、母親の直感のニトログリセリンを燃えあがらせる蝋マッチとなったのはこのことではなくて、スーツケースに詰め込む段取りのことに彼女はすっかり聾になってかかりっきりになっていた。ジョニーは軽やかに屋根裏部屋に登って、拳銃を取り戻した。
午後の一時には、穏やかで草臥れる登り道のあと、彼らはすでに丘の上にいた。ただ母親の金銭上の気掛かりだけが水をさす山歩きだった。「うちのお金は見越したよりずっと早く消えてゆくわ。」父親が言った。「金はまた貯えられるが、生命ばかりは誰もまた貯えられやしないからな。」ジョニーが言った。「金の心配なんて止しなよ。事が終わったら、ぼくが働くよ。それに夏までには何もかも終わるはずだし。」
小別荘は野性に返った、新たな佇まいだった。そして辺りの何もかもが完全に冬のjemale、新たな佇まいだった。川も平地も丘も、何もかもが春の復活なしの墓地を予感させていた。町は、黒ぐろとした待機の昏睡のなかに、寒の不動の靄のあいだに、不安に灰色がかって見えた。あんなにも不吉な外観を呈していたので、町の外にいることにかえって心が慰むのだった。マリダMaridaに関しては、その場所、生け垣、小径、丘の鞍部が。
When yellow leaves, or none or few, do hang
黄色い葉の、あるかなきかの二、三枚が、垂れるときに
Upon those boughs, which shake against the cold,
寒気に震える、そうした枝々のうえに、
Bare ruin'd choirs, when late the sweet bird sang...
晩くも小鳥が甘美に唱ったときに、雨曝しの朽ちた内陣……
-
肝炎を患っている母親が苦労しながら彼のためにもベッドを整えているのを見ると、彼は後悔した。あのベッドは、土壇場でおのれを裏切らないかぎりは、彼が使うことは決してないだろうに。だからって、あのことを母親に言えたろうか?
その日の午後と夕べとはナイアガラ滝みたいにniagaricamente真っ逆さまに暮れてしまった。すべてが死に、闇と風だけが残って、強風が母親の神経を鋸で挽いた。彼女はロンドン放送をアドレナリンおよび麻酔剤として必要としていたので、ラジオがないために発作を起こした。ところが、父親のほうはその不分明で曲がりくねった順応性からか、心理的な新しさのなかにぬくぬくと住みついていた。彼らは呆れるほど早く床に就いて、父親は身体上の精力的な昂揚の高まりと砕かれえない安全に浸りきって両手を擦りながら、子供にかえった信じがたい声で口ずさみながら言うのだった。「外でこんなに風が吹き荒れているときに、布団のなかで寝ているのはなんて素敵なんだろう!」
ジョニーはしばらく本を読むからと言っておいたのだが、階上でupstairsどんな物音もしなくなると、マーローの本を脇へ退けて肘をついてelbowed down、その短さとビジネスライクさbusinesslikenessに悲壮なものを覚えながら、あの手紙を書いた。それは主として母親に宛てたものだったけれども、そうすることは最小とはいえ、やはり悪だった。母親の裡で創造愛と所有愛が決闘するのをこの目で見るde visuという考えには到底耐えられなかった。うら寂しいdreary丘の上で、あの手紙を前にした彼女の朝となるであろう、その朝を想うことは、胸のはり裂けるheartrendingようなことだった。短すぎて堅苦しいあの手紙は、もしも彼に……冒険の結末が悪しければ、彼女にとって残りの人生を通じてたった一つの形見の生命のかけらlife-pieceとなるかもしれないというのに。それからおのれの新しい徴をそこに残しておくかのように、再び紙のうえを指でなぞって、母親が確実に見つけるように、それなら、もし……だけど彼の母親は勇気のある強い女だったし、彼が冒険を開始するのに要する物事を引き寄せる術はおもに彼女から知ったのだったしand mainly from her he knew to draw the things for his opening adventure、おまけに敬虔な誇りの真っ直ぐな気質さえも。
最新の動作については、まったく音をたてない、おのれの忍び足、長年培ってきた天賦の才を、彼は信頼した。何もかもうまくゆき、拳銃はすでに胸の上にあったし、いまは身体の一部になって、とうに働いている筋肉みたいだった。ただ雪靴だけは、外に出て、轟々と吹きすさんで酔わせる風のなかで、履くことにした。
最も高い丘々、その不動さにおいてできるかぎり彼を助けてくれるであろう父祖の地に向けて、黒ぐろとした風の渦巻きのなかを、男はその普通の人間の大きさにあるときに何と偉大なのだろうと感じながら、彼は発った。そして発った瞬間に、彼は権限が──死そのものもそれを剥奪することのない──イタリアの真の民衆の名において、あらゆる方法でファシズムに反対し、判決を下し、執行し、軍事的かつ民事的に決定する権限が、おのれに与えられたのを感じた。そんなにも大きな権力は酔わせるものであったけれども、しかしそうした権力を彼が正当に行使してゆくという自覚のほうが果てしなく遙かに酔わせるものであった。
そして身体的にも彼はこんなにも男であったことはなかったし、ヘーラクレースのように風と大地を撓めながらゆくのだった。
第十九章の終わり
(以下、工事中)
(第二部)
第十八章
拳銃は持っていた。だが、それが平たく重苦しく内ポケットのなかにこうも厳めしく嵩張っているのを感じると、一向に頼もしい気がせずに、むしろ苛立たしい異物感を覚えるのだった。もうそれは彼の夢みた身体と一体の銃ではなかった。半ば無人でくさくさする道すがら──いまは顔見知りの人びとはもう、初めのころのようにほかの離散兵や徴兵忌避者に対するのと同じく彼にも、思いやりのある親しげななじり顔を向けなかったし、いまではよそよそしいうんざり顔を振り向けて、遠くで、私と無関係であるかぎり、おまえに何が起ころうと知ったことかという風情なのだった──彼は歩きながら、大いなる日まで拳銃を隠しておく場所のことばかりを考えて、いまのいま、最初の角で、それを使わねばならないとは露ほども考えなかったし、たぶんそんなことはできもしなかったかもしれない。とにかく新しい感覚、往きあう人たちみなとはおのれが異質である感覚を味わいながら、彼は歩いていった。道ゆくあの人たちが心臓の上に、平たく冷たいその表面に仰天して鼓動する心臓の上に、拳銃を携えている可能性は千に一つもなかったし、拳銃のこうした抽象的で隠された硬さとその宿命がおのれの足取りや顔つきに反映しているに違いない、と彼には思われるのだった。彼は異質な者に《映っている》に違いなかった。けれどもやがて、目を覚ました意識が、いまは一挺の銃をある場所から他の隠し場所に移しているにすぎないことを彼に思い出させると、そんな異質性は弱められた光みたいに彼から消え失せてしまった。そうして彼は十一月の遅い午後のなかの何もかもの反映みたいに、灰色で受身な姿におのれ自身に映るのだった。
周辺地へと道を逸れてから、真っ直ぐに川へ向かった。橋と白い岩場のあいだの土手のなかほどまで行って、早くもかじかんだ草地の上で膝の上にうなだれて、目は川面の傷つけようのないヴェールを貫きながら、タバコを一本燻らしたかった(午後に割り当てた最後の一本だった)。しかし最寄りの土手の上に足を運ぶsteppedと、裂かれた橋、そのまだ真新しい裂け目が鋳鉄色の空を背に血塗れになってごく間近に迫ってきて、彼はその眺めに抗いようもなく吸い寄せられてしまった。そしてまた、渡し舟という新たな仕事の眺めも同様だった。それゆえ彼は渡し舟の荷揚げ場まで五十歩のところまで川岸を遡っていった。
青白い川原に、いつになく汚れた人たちがいて、あの渡し舟という魅力的で不確実な新奇さを、中世の空気を、息を殺して、啜りながら喉に吸い込むかのように、見守っていた。渡し守たちはあからさまにおのれを過信して、慎み深さと誇張をまじえながら、働いていた。そして同じ過信をもって乗った人たちは奇異な冒険から下りるかのように下船していた。ジョニーは泥で汚れたまま乾いた丸い石を集めて、石塚の椅子を拵えて、そこに腰を下ろすと、タバコに火をつけた。できるだけ長くそれをくゆらしていたかった、水の流れのなか、渡し舟の仕事のなか、崩れかけた空のなかに淡く移ろう雲のなかに、すべてのなかにあるあの緩やかさでそのタバコを吸いおえたかった。そして大気がこんなに漠としているので、台無しにされたとはいえ、聳えたつ橋のくっきりした輪郭そのものがあの大きな傷痕を憐れむかのようにすっかり霞んでflou柔らかくなって、夕暮れの大気が一気に黒ずんだ川面を縮らせて流れを早めさせ、汀に垂れ下がったポプラ林を呻かせるまで、彼は見つめていた。
いまでは、灰色く黄昏た川原にぐずぐずして、ジョニーとともにまだ残っている者はわずかだった。そして風が途絶えた折には静けさがいや増して、渡し舟の赤い錆止めペイントに、ひっぱたくslammingかのようにぶち当たってゆく川のなかほどの流れの音がはっきりと聞き取れるくらいだった。そのとき川向こうの街道に、欺く音の流動性と軽微さをもって、かなり長い縦隊の自動車部隊の騒音が聞こえた。ポプラ林の陰に隠れて正確に数えるのは難しかったが、二十台以上のトラックだった。そして彼らの色は、乗り組んだ兵隊の色のみならず、彼らの流動体の色もまた、ドイツ軍だった。川のこちら側の二、三人が、やつらを認めて、慌てて町へ逃げだしscrambled off to the town、彼らの噛みつくまっしぐらの足取りの下で川原の小石が遠心的に跳ね飛んだ。するとジョニーといたひとりの男がゆっくりと立ち上がり、歳のほどは定かではない労働者風の男で、頭にはバスクベレーを被っていたが、それがまた被ったまま生まれてきたのではないかと見紛うほどに彼の頭に油まみれにぴたりと嵌まっていっかな取れそうにないのだけれど、さらに近寄ると言った。「まあ、あの下の連中は気狂いか、あんなふうに逃げだすなんて。ドイツ軍は逃げだす者を撃つのだ、とまだわからないのか?」
怕いくらいに無関心に、それでもジョニーが言った。「そいつは本当だ、じっとして、こんなふうにやり過ごすほうが少しはましだ……」あの労働者の見直すと同時に戸惑うような眼差しを、彼は頬に熱く感じた。だが、向こう岸のドイツ軍はまったく何もしなかった。こちら岸で蜘蛛の子を散らしたみたいに逃げだした人びとがやつらの視界には入っていないかのように、ひたすら観光客然と、爆撃された橋と川の真ん中で動きを止めた渡し舟に見惚れていた。危険を自覚したaware乗客たちと渡し守たちの心と筋肉のなかの苦しいサスペンスを、ジョニーは遠目でも見て取ることができた。一人の若者がわれを忘れて艀から飛び込んだ。足から跳んで、頭が浮かぶと、川の本流の運ぶにまかせてやすやすと泳いで、ジョニーのいる川原に上がるのもまだ危険とばかりに、流れのままに遠ざかっていった。すると労働者が小声でせめて屈もうじゃないかと言って、彼とジョニーは川原にうずくまり、労働者は半分のタバコに火さえつけて、狙い撃ちされぬためのように丸くした手の陰で吸った。ドイツ軍は凝視を続けて、その遠く疎らで緩慢な仕草のなかには不測の障碍に対する苛立ちは見られずに、観光客然と、ただ眺めていた。「ドイツ軍がわれわれのほうに向かっていたのなら、おれたちの橋を破壊した英軍はよくやったといえるのだが」と、労働者が言った。やがてジョニーは川の本流mainstreamの下方に目を返して、泳いで逃げた男がすでに陸にあがって、川原の目に見える最後の辺りを慌しく駆け抜けscramblingて、岸辺の森の暗がりに向かうのを見た。いまではドイツ軍はエンジンに再び点火して、いわくあり気に出力を最小限に絞ったままで、その敵意とよそ者らしさを、いくつもの機関の振動からもジョニーと労働者は感じとった。やがてやつらは、まさに美術探訪を予定どおりにこなした観光団よろしくまた出発した。そしてあの縦隊の後尾が、トリーノに向けて広々とした街道をゆくのを見届けたのは、実に間もなくのことだった。あらゆるものが動きだし、人びとも渡し舟も大気そのものも、冬眠から覚めたかのように動きだした。ジョニーが立ち上がり、労働者もいくらかリューマチをこらえるかのようにやはり立ち上がって言った。「やつらはわれわれ目当てではなかった。橋を、敵の英軍の戦果を、観察しに停まったのだ。しかしやつらはいずれやって来るに違いないし、そのときにはきっと陸の方面からやって来ることだろう。」男は都会化されていない機械工の風貌があって、何もかも耐え忍ぶ風情と、ある種の無敵さ、冬の次にくる春ほどに確実な予知能力を示したので、ジョニーはそのことがありがたかった。けれども男が一緒に町へ向かおうと合図したとき、それも言葉で言ったのではなくて足取りで招いたのだったが、ジョニーは渋って、南へ向かわねばならないのだと掠れる声で言った。そしてそのとおりにして、町の厚さだけ土手の上を迂回して、ついで南から町へ入り込んだ。黄昏のなかに昏睡したかのような町並みは、恐怖のせいで見るからに横にだだっぴろくてゼリー状で、まさしく彼の老いた叔父みたいだったし、あの俄なドイツ軍の出現の反響にいまごろになって襲われたかのようだった。司教座大聖堂のロマネスク様式の鐘楼の力強い大厦高楼そのものがゼリーみたいに海抜以下に見えてlooked jelly and under height-level、もはやその衆生救済の永遠の徴はなくて、文字盤の上に長針短針は頽れて、二つの針の影は六時を指していた。
家に帰った。その家は、彼の長い兵役を閉じた短い丘の上の休暇のあとではいっそう目新しく常ならぬさまに彼の目には映るのだった。両親はすでに夕食をとっていて、階段を登りながらナイフとフォークの当たる音を聞いて、彼は気落ちした。彼の無分別に父親は首を横に振るにとどめていたが、母親は起ち上がって彼がわれから進んで破滅しようとしている軽はずみを面と向かってなじった。そこでジョニーは母親を宥める唯一の方法は、危険を小さく言うのではなくて、あけすけに話すことだと悟った。「ドイツ軍を見たよ。」ふたりはナイフとフォークを高く掲げたまま、そのもの悲しい食事から遠のいてしまった。「縦隊全部が、橋の向こう岸に二十分あまりも停まっていた。やつらはまったく何もしなかった。」「で、おまえはどこにいたの?」と、ドイツ軍が何もしなかった驚きを呑み下しながら、聞いてきた。「川さ、こちら岸のね。」
この世で最低の食欲をあやしながら、食卓についた。父親が言った。友だちのボナルディが町の北外れの彼の元ガソリンスタンドでパルチザンたちの夜間訪問を受けた。彼らはガソリンを探していたのだが、中壜二本の溶剤で満足するほかはなかった。それが友だちの持っていたまさにありったけの物だったからだ。「彼らはどんな様子だったの?」と、喉もとに心臓をせりあがらせてジョニーが尋ねた。ありふれた他の男たちと同じ男たちである以外ならすべてがありえた。ずっと不明瞭な声で父親が述べた。彼らは白い服を着て、アルプス・スキー兵の胸あてズボンを穿いていた……「第四軍団の離散兵に違いない。家まで帰りつけなかったか、それとも帰りたがらなかった人たちだ。そしてな、ボナルディの話によると、彼らは聖人の脛どころではなかったぞ。ガソリンなどもはや無いということをどうしても信じなくて、彼を脅して酷い扱いをしたそうな。ドイツ兵やファシストと同じか、それ以上に彼を震えあがらせた、とボナルディは言っているぞ。」頭を振って言った。「いたるところで暴力が溢れて、わたしらはその海原の真っ只中だ。」するとジョニーは、彼の父親やボナルディみたいに老いることの絶望的な悲しみを思った。老いて白髪頭で錆ついた男たち、彼らだって一九一五年の有史前の春には敏捷で高慢で荒々しい青年たちであったろうに。青春の解放のなかで彼らはどうしていたのだろう。敵味方双方から脅しつけられ虐待されるあの渦のなかに嵌まってしまったという彼の父親が導きだした考えにも我慢ならなかった。寄る年波を惨めにも認めて、皿のなかに垂れている父親の頭を彼は眺めていた。
彼の母親がファシスト共和国への誓約について仄めかした。誰かさんはとっくに誓約済だよ。ほんの形式にすぎないのだから。汽車に乗ってブラの本部に行って、誓約して、握手して、何もかも厳かな仲間意識の毒気の抜けた雰囲気のなかで、すっかりフェアプレイで仕上がるのよ。誰かさんはとっくに誓約済だよ。当事者間だけの秘密だのに、すぐに知れ渡っちゃうわね。弁護士だろ、小学校長だろ、トート組織と査証付の契約済の土地測量士だろ……「やつらはぼくの誓約を待ち草臥れてくたばるがいいさ」と、むしゃむしゃ食べるパンの間からout of his munched breadジョニーが言った。平たい声で、母親が言った。「何もそうしろなんて言ってないよ。それにまだおまえの番じゃないからね。いまのところは、やつらは将校たちの誓約を求めているのさ。だけどおまえは将校になって戻ったわけじゃないもの。」
「こんどは何をする気だい?」と、彼が座を立つのを見るなり、両親が聞いた。キオーディ先生を探しにひとまわりして来る、と彼が答えた。「ぼくだってやはりなんらかの接触はたもっておかないとね、何事か機が熟そうとしているのに、ひとりっきりでいるなんて、不可能だし、理屈に合わないよ。」そのあとで帰って眠るけれど、家の自分のベッドでだ。両親の頭が皿の上に揺れたけれども、彼らは叱るでもなく、危険の渦巻きのなかへ身をまかせていった。
外へ出るなり、胸の上の固い圧力で、彼は拳銃のことを思い出した。家にとって返してそれを隠そうと身を翻してはみたけれど、隠し場所をなかなか咄嗟には思いつかずにpuzzlement止めてしまった。こうして拳銃は身につけたままだったので、あの意気消沈させる夜の町の流離(さすら)いも無情なスリルgrim thrillでいくらかは耐えやすくなった気がした。彼はきっとキオーディに会えると思っていたわけではないし、果たしてキオーディに会いたいのかもよくわからなかったHe was not quite sure to meet Chiodi, to be willing to meet Chiodi。暗がりで巡査とすれ違った。その無用の制服を纏って、あんなにも哀れで、あんなにもそのことを自覚していたあの巡査はその非公式unofficialの足取りのなかで、おのれの哀れな無用さを自覚するあまりに人目を忍んでいるかのようであった。
彼はアルベルゴ・ナッツィオナーレへと向かった。ドイツ軍が目抜き通りのホテルにときたま出没するhauntedようになってからは、壁の上塗りを引っ掻くみたいな寒さにもかかわらず、先生がそちらに鞍替えしたのを承知していたからだ。けれどもまさにその道すがら、彼は先にキオーディを見つけた。忍び寄る寒気に悪化しだした関節炎ゆえに、引きずるようなその足取りで、真っ暗ななかでも先生とわかったのだった。そして先生は、手足の動きがとても無意識的で抑えられた、背が高くてほっそりした青年と連れだっていた。シッコだった。火の消えた小さなパイプを口の端から端へ動かしていた。「で、コチートフは?」と、ジョニーがささやいた。「彼はもう出かけたよ、ブラ近辺で、その赤い部隊を組織しにね。」ジョニーの心臓がどきんとしたが、拳銃の堅い冷たさにすぐに収まってしまった。シッコがいなかったら、先生に拳銃のことを話したことだろうし、見せさえしたかもしれない。キオーディが言った。「この厄介な関節炎さえなかったなら、わたしもとっくに今夜から彼と一緒にいたことだろうに。わたしの先決すべき区別は不動のままに残るが。しかし肝要なのは戦いはじめることだ、それからわかることだろう。ところがわたしは冬じゅう足止めを食らわねばならなくなった。わたしは春を待たねばならないのだよ」と、〈終末の日Doomsday〉のあとの最初の春でもあるかのようにそれを言った。「脚さえしっかり動くようになれば。」「なぜブラ方面で?」と、問いながらジョニーの心は再びあの土地を訪れていた、トリーノへの行き帰りになんども見て通過した土地、ナッツィオナーレ煙草工場の左手の赤い丘丘、窯を造るのに向いた土、どの丘も切り立って峡谷canyonsをなし、頂も同じように燃えたつ緑で、その下の赤い地肌が緑の鮮やかさを三倍はひきたてているかのようで、覆われた土地の人目を引くeye-catching景色をつくり出していた。「どの方面でもよいのだよ、ジョニーよ。」「ぼくが丘の上に登るときには、ぼくはランゲの丘々に向かうつもりだ。なぜかわからないけれど、ぼくの父方の血脈はそちらから来ているんだ。」
シッコが何かやるよりも言うのが面白い話があるよ、と先生が告げた。するとシッコがその言葉を受けて、その音節ごとに切る詳しい話を、しかも身振り手真似は恐ろしいほどに倹約しながら、そのほっそりした首をはね上げるリズムに合わせて、何かばかげた話をしかねなかった。彼が言った。「明日の朝、一番列車で、ぼくはブラへ行って、ぼくの立派な誓約をしてくるよ……ジョニー、ぼくを侮辱するのは待ちなよ。午後の汽車ではぼくはクーネオに着いて、二カ国語で書かれた許可証、アウシュ……を手に入れるんだ。」「Auschlanding」と、キオーディが正確に言った。「そうして用意が整ったら、ぼくは〈解放委員会〉のために行動を開始するよ、自由党代表としてね。」いいだろう、とジョニーが言って、よかろう、とキオーディも言ったが、つけ加えた。「きみたち〈解放委員会〉の男たちは恐ろしい時期を迎えることだろう、パルチザン戦士さえ遭わないような。」シッコが控えめに頷きながら、パイプの柄を唇でそっと締めつけて、そうした時期への覚悟はできているように見えたし、透けて見えるような不安は微塵も見せなかった……
やがてキオーディがその脚への寒気、霜を結ぶ石畳に襲いかかる、黒ぐろとした吠えない猟犬みたいな冷気の報いをこぼしたthe black, houndlike mute of cold raiding the frosty pave`。そこでシッコが、町外れの安カッフェに引きこもろうと提案した。安全無類だが、彼自身認めたように、気を惹くものなど無いに等しく、汚れていて、トランプ勝負を頑として続ける者が数人いるばかりで、空っぽの酒棚がうすら笑いを浮かべている……するとキオーディが見事な心機一転ぶりで、より当を得たホールとして優雅な淫売宿を逆提案した。そこでなら、アスパーシア、裸足の遊女たち──《この世で最も裏切らない女たち》──と、セックスゆえの懸念は微塵もなしに、気楽なおしゃべりを少しは交わせることだろう。二人は同意して、ただシッコは、明日のぞっとするような早朝にappalling earliness一番列車に飛び乗らねばならないので、あまり引き留めないでとだけ願った。ジョニーは過去のどんなときよりもはるかに身近に彼を感じた。あんなにも穏やかに、飾らずに誓約を待つ彼。育ちのよい冷やかなこの同じ態度をきっと保ちつづけて彼はファシスト軍士官と対峙し、おのれの誓約をくれてやるかわりに、その自ら買って出た反ファシズムの任務に最善を尽くすために最適の道具を手に入れることだろう。キオーディが言った。「それに淫売宿で罠に嵌まることはあまり心配しなくてよいだろう。ファシストがやって来ても、わたしの考えではやつらはわたしらに何もしないよ。イタリア男の淫売宿的連帯が優るはずだ。そうしてわたしらはみごとな共同ハンドをするわけだ、政治の埒外のかなたで。」笑いながら、彼らは優雅な淫売宿へと向かった。
淫売宿は閑古鳥が鳴いていたし、常連の現われるあてもなかったから、お嬢さん方はみな普段着のままで、ダイニングルームで、タバコをふかしながら、ポーカーをやっていた。ミラーノ女の主は温かくジョニーに挨拶して、先生にはほどよく敬意を表し、冷えた小パイプをしゃぶりやめないシッコをまるですげなく迎えた。女はすたったりの商売に目に見えて気もそぞろだったのに、そこはこの職業の昔ながらの高貴さゆえか悲歎のなかにも自制と品位を崩さなかった。けれどもついに動揺したどんな物売りとも同じようにたっぷりとあけすけに吐露しだした。最初の大打撃は休戦と軍の崩壊だった。将校の旦那方も下士官連中もとんと見えなくなった。二番目のずっと由々しい打撃は、数そのものよりもその示唆するところに由々しさがあって、民間人の来店頻度の漸減だった。「外で逢ってるのよ、かつてなかったほどに外で逢っているのよ!」と、愚痴をこぼした。「戦争のせいだわ。で、誰ももう道徳のことを考えないし、宗教はもう無いわ、だから誰もかも……、娘たちも人妻も。外ではいまでは自由恋愛があって、真っ盛りだわ。で、あたしたちも出かけるの……」「あなたがたまでもな」と、キオーディが言葉を引き取った。
女たちは気落ちしているふうには見えなかったし、小鳥が啄むみたいに短くぱぱっとタバコをふかしながら、呑気にスプルにうつつを抜かしていたけれど、ただときおりまるで何の意図も含まない斜めの眼差しを客たちに投げつけるのだった。とうとうシッコが小パイプを落として、固くなって上座の金髪女に合図した。「違反して済まないけれど」と彼が言った、「でも……どうも実際ぼくは着すぎちゃって……」「わかるとも、それにきみには」と、キオーディが言った。
「最後のチャンスになるかもしれないし。」そしてジョニーが。「断頭台の陰での抱擁か。ブロンドの大女とWith the big blonde.」
栗色の髪の、一番ほっそりして残り二人のうちであまり職業的でない女が、カードを置いてR6の箱を見せびらかした。彼女のあげるという仕草を同僚の陰険で殺人的な視線が截ち切った。キオーディが言った。「きみはドイツ煙草を吸ってるね」と、軽やかに。すると同僚の女が、むろん得意げな目をした生粋のヴェーネト女がそのとき爆発した。「この娘は共和国軍の男がいるんだよ……」「売女」と、ジョニーが清澄な笑みを浮かべて、たいそう心地好く言った。するとヴェーネト女が手の甲でブルーネットの女を打とうとした。女主があいだに入って、たちまちハイピッチでまくしたてた。「お嬢さんたち、また始めないで。やめなさい、このあば……ここには働きに来てるんだろうが。仕事がないから頭のなかに蟋蟀を飼うんだよ。」
ヴェーネト女が言った。「あたしはこの娘の男を見たんだから、違うったってむだだよ。ブラの駅で、乗換え列車を待っていた。む……つらして、あたしが連れの女を見たことないかのように。ところがあたしはこの娘を十三年間も見てるんだよ。おつにすましたつらして、手はいつも半分抜いた拳銃の上に置いちゃって。こんど逢ったらあいつに言っておやり、拳銃をしっかり握りな、どうせ引き金をもう押さえられやしないんだから、てね!」
ブルーネット女はうつむいて、シガレットから立ちのぼる煙に、まるで生贄的な吸入みたいに顔を晒していたし、恐怖でその痩せた肩を目に見えるくらいに震わせていた。「あたしが煮えくり返るのはね」と、太った女が言いつのった。「あたしがこの娘の女でひもだってことさ。この娘を毎晩あたしと一緒に寝かせてやって、何時間でも愛撫してやっていたのに。あなたは承知の上でしょ、お姐さま、あなたはいつも何か疑ってらしたから。でもこの娘ったら……共和国軍に男をこさえて。けれど、パルチザンがやつを即死させる日がすぐにやって来るでしょうよ。そうよ、そうよ、あんたがあたしを密告したってこわかないからね。なぜって、いいこと、あたしはいつだって、あんたの股を掴まえて粗朶みたいに口まで裂いてやるからね。」明かりの暈のなかにいまはとまっている片手の陰の合図からジョニーはキオーディに目を向けた。「みなさん!みなさん!わたしは声を大にしますぞ、落着いて、落着いて、落着いて!陰門ゆえにいかなる悲劇も起こってはなりません。陰門には命令も責任も通用しません。わたしは願をかけます。果てしなくあらゆる類の死者を見ることになるこの特別な戦争が、せめて誰ひとりその陰門ゆえに死なずに済みますように。天の意志が、虐殺は男たちだけに止めて、どの陰門も罰を免れて、差別をたてずに、戦士らを強くし、瀕死の者を慰め、ついには勝利者たちへのまったき褒美となることにありますように。」
「なんてむかつくんだろう!」と、ヴェーネト女が要約して、黙って苦しんでいるブルーネット女の上に肉の石塊みたいにのしかかった。そして女主は、先生に感謝して。「教授は、だってあなたは教授ですもの、極めつきの話をしてくださった。さあ、あんたたちは自分の仕事のことだけ、自分の稼ぎのことだけを気にかけなさい。どのK.も軍服は着てないからね。考えのあるひともなかにしまっておくのだよ。」
ヴェーネト女はもう何もつけ加えて言わずに、ただ手の甲で打つ動きだけをくり返したけれど、こんどはその中断のなかにいくらか労りが、ある特別な配慮がこもっていて、その日の夜にもベッドのなかで続きをして、おまえを明るくなるまで愛撫してやるからねとわからせるのだった。しかし、ちょうどそのとき彼らは、シッコと金髪の娘が数分前から階下に戻っていたのに気がついた。そしてその娘が躊躇いがちになったfaltering声でいった。「あたしはいつもパルチザンたちのためにお祈りするわ。毎晩パルチザンのためにお祈りを唱えるわ。」そしてその固い意志を秘めた言葉に戦きがあって、それは淫売宿の濃く淀んだ雰囲気のなかで羽ばたきにも似ていた。そしてジョニーはおのれがまだパルチザンではなくて、あの娼婦の祈りを享けられないのは辛いことだと感じた。
彼らは別れる前に握手して、キオーディはその哲学的な徹夜へと向かい、シッコはその短い、たぶん懊悩に満ちた、朝の五時には截ち切る眠りへと向かって、ついで凍てつく煙い駅へ赴き、汽車に乗って、敵手であるパルチザンと同じくらいに神話的なファシストの士官たちと面と向かって対峙しに行くのだった。
ジョニーは虚ろで戦きに満ちた、目的のない、ゴールのないgoalless一日に先立つ暗い夜へと歩んでいった。星々がビロードの上みたいに瞬いている重苦しい空のなかに、一機の飛行機がいまにも墜落しそうに、おのれの取るに足らなさを果てしなく自覚しながら、呻いていた。どこの国のものとも知れぬ飛行機で、たぶん現代的飛行士であるネモ船長によって雇われてwaged操縦されていたのかもしれない。あの飛行機は人びとの噂によれば、絶対的な闇への狂信的な切願にかられて、灯火管制に違反する明かりという明かりに機銃掃射を浴びせかけるとのことだった。
第十八章の終り
[Ⅳ]
第十九章
翌日、早朝に、ジョニーは拳銃を隠しに屋根裏部屋へ昇り、そこにそれを隠したまま過ぎる時間を思うと頭がsickening痛んだ。低い屋根の暗い皺になった緩やかな傾斜の裏へと、通れないくらいに罠だらけの狭い階段を登りながら、屋内の遊び場resorts indoorのなかで屋根裏がいちばん満足のゆく冒険に満ちた場所であったころのことを、幼年時代のことを彼は想っていた。頭上にのしかかる苔むした屋根屋根、仕切りや板材の障碍、剥きだしの壁という壁、密で、邪魔されない雀蜂やゴキブリなどの昆虫たち、どうも甲冑の一部みたいな散在する板金やブリキ、ゆっくりと飛びくる一群の矢みたいな雀蜂の羽音の横切る生温かく淀んだ空気、いるなんて考えられないくらいの女たちの不在、何もかもが、あのころは、屋根裏を冒険に向いた舞台か、それともせめて監視と戦闘以外に何もする必要のない世界のとある場所として見なすように彼を仕向けていた。しばしば大伽藍の堅くてどっしりとした壁を見下ろす、教会内墓地の真上の目の眩むような高さに開いた天窓框に陣取って、引きずり込まれるように易々と空想に浸って、多様な攻撃を有利な地点から撃退する城方になりきるのだった(彼の生来の気質からして、城方のヘクトールがぴったしだった)。結局、彼は白人を射殺すことを考えられはしたが、良心が咎めて狙いが外れてしまうのだった。そこでアメリカインディアンやアフリカの黒人を攻城方にしてみるのだが、それでもことはなおも完全ではないしまるで心穏やかではないheart-setting quite。最も目だつ猛悪な出陣化粧war-paintsを攻城方のアメリカインディアンや黒人に塗りたくることでやっと落着いたのだった。しかし、いまは白人間の問題だ、とおのれに言いながら、彼は綿にくるんでボール紙で包んだ拳銃をとある大梁の溝に隠してその詰物が発覚しないようにカムフラージュして、インテリア的な空想力を働かせて工夫する楽しみさえ覚えた。しかし、いつ役に立つかも知れぬ拳銃をむざと埋めているのだという思いが、何もかも台無しにしてしまった。
屋根裏部屋は、抽象的で人工的な、冷蔵庫じみた寒さだった。狭い階段を降りながら、その段段が子供のころの歩幅にはぴったりだったことに思い当たった。いまは下りながら、彼の足は段と段の間のわずかな高低差とその切って落としたような急さ加減に尻込みするのだった。
彼の父親が、悄気ながらも健気な付添人の顔つきで、ちょうど買物から帰ってきたところだった。彼の母親は加減が悪かったし、世界大戦がまるごと彼女の肝臓にのしかかっているようで、もうほとんど動き回らなかったし、不治の病を宣告された脇腹に強く片手を押し当てないではもうほとんど何もしなかった。けれども今日の両親の落ち込みぶりは破滅的で、手のつけようがなく、どんなカムフラージュも通用しそうになかった。その無自覚な解釈法的なやり方ゆえに、ゆっくりと体質的でわざとらしい父親の話ぶりには先験的な苛立ちを覚えて、ジョニーは母親から事情を聴こうとした。今日の母親は、肝炎による差し込み以上の何事かによってうちひしがれて口がきけなかった。いまは父親の無表情な綺麗な顔が事情を明かそうとしていた。「おまえは昨日の夕方、ドイツ軍の縦隊を見た、そう言ったな。」「ぼくは見たから、そう言ったまでさ。」「しかしやつらがどこからやって来たのか、知っているのか? 知りはすまい。B…からだよ。おまえが小さかったころ、わたしらが五〇九を持っていたころ、わたしらといっしょに、おまえはあそこを通ったことがある……」「ドイツ軍がB…で何をやったんだ?」「報復だよ。」
あの村の大岩に拠ったパルチザンたちがやつらになしたわずかばかりの死者のために、翌日やつらは村を焼いて、殺して、掃蕩して、掠奪して……「二人の司祭までもだ、うち一人はどのみち火に巻かれて殺されたことだろうに、それを炎のなかに掃射して撃ち殺したんだ。」
ジョニーには昨日の眺めが、その意味を明確にされるにつれて、恐ろしく位相がずれてきたし、それでも岸辺に停めた車輛のなかから顔を突きだして、予定外のあの夕暮れの停車のなかで、物静かに観光客然と風景を眺めていた報復者たちの眺めがなおもくっきりと目に浮かぶのだった。そしてまた、ドイツ軍に戦争ごっこを挑む、あの無自覚のパルチザン射手たちを何よりもまずin primis憎悪する両親のあの歴然とした傾向も恐ろしかった。母親が苦しげに動いて買物を引っ張りだした。
「神さまはやつらをあたしらから引き離しておいては下さらない、彼さえも。ジョニー、すぐに丘にお戻り。」
十二月に入って間もなくの日々に、何かが、たとえそれが半ば駆引き、半ば暴力の何かだったにしろ、極めて速くに起こった。その日ジョニーは幸運にも町の城門の外の従兄弟の家にいて、完全に監視下の隔離seclusioneという殺人的な倦怠からわずかでも従兄弟を救いだそうと努めていた。なのに叔父は奇妙にも病的なくらいに察しが悪くて、百度目の『レ・ミゼラブル』通読に没頭していた。それが、引退した保守主義者の叔父を、そのソゥシャルマキシマリストとしての裏切られた青春に立ち帰らせる唯一の変わらぬモチーフであった。彼らは曇った窓をとおしてかちかちの丘の斜面を下へ、町の青白い城壁まで見下ろしていた。ラジオの箱がヴォイス・オヴ・アメリカの催眠的な待機のなかで震えて、ときおり叔父は大きな頭をその本の中の本の擦り減ったページから擡げて、前世紀への讃歎と今世紀への嘲笑ゆえに震え声でのたまった。「ヴィクトール・ユーゴー。このような作家はわたしの時代にしか生まれなかった。」すると二人の従兄弟たちは大慌てで賛同して、叔父を黙らせてto stop him not to break、二人だけのはち切れそうに詰まっていながら空っぽの脳中を堂堂巡りする工作に専念するのだった。
何もかもがこうした眠気を催す、しかも神経症的な一刻に、町の立方体の囲いのなかで起こった。グラツィアーニ布告に答えようともしない徴兵忌避者たちを捕らえるために、布告を部分的に適用して、共和国軍の強力な一隊がにわかにブラから来襲したのだった。予想されたように用心深く徴兵忌避者たちは姿を晦ましていたから、やつらは将来の酷い結末にわが身を委ねないように必死になって、出払った徴兵忌避者の責任を留守家族にまで拡大して、脅えて険しい目つきの憲兵たちの協力をえて、何十ものdozen of them家族を町の留置場に連行して、心理的=感情的圧力の避けられぬ結末の様子見を決めこんだ。午後の早い時点で、共和国軍は飼い馴らした町を後にして、監視の役目はブラから派遣した一隊で強化した土地の憲兵隊に押しつけたのだった。
六時ごろに田舎家に、ジョニーの母親が初歩的な泰然とした筆跡で書きつけた手紙が届いた。絶対に動いてはだめ、脅えてそれでも沸き返っている町には下りてこないで、憲兵たちは脅えているだけに情知らずだから、叔母さんのところに無期限に厄介にならせてもらうよう頼みなさい。
ジョニーは夕暮れの暗がりのなかを、擾乱の大きな神秘的な箱に近づく刺激に浸されながら、即座に町へ下った。環状道路の並木が嵐のように嫌な音をたてて、不自然に激しく揺れ動いていた。アスファルト道の背後に追いすがる足音を聞いて、そちらに向き直った。彼もおのれの男としての秤を取り戻そうと、家を逃れ出てきた、ルチアーノだった。一瞬にして彼の横に並ぶと口を噤んで、決然と、信義に厚く歩いていった。ほかの男たちがゲームのルールを、すべて何世紀も経た掟を破ったからには、彼らは町へ下りて見て、抗議し、違反をぬぐい去らねばならないのだった。
町外れの通りはどこもまったく人けがなくて静まり返っていたが、町の中心部からは沸きたつようなざわめきが、それでもひどく心臓に堪える音が漏れてきた。そして町の舗道の上にファシスト軍の痕跡をなぞる感覚は、神秘的で 心臓に堪えた。腕ずくの行動が避けられぬという自覚がすでに十全に、彼らの筋肉の隅々まで、諦めにも似て、強張るくらいに行き渡っていた。ジョニーは、家族の脅しと涙の障害を越えて初めてまた取り出すことのできる、隠した拳銃のことを思って歯噛みした。従兄弟が言った。「制式拳銃をぼくが持っているよ。」
中心街では、まるっきり若い人たちの、フェンシングみたいに飛び跳ねる鼠みたいな動きがあった。そこに混ざり合っている顔々のなかにはとくに顔見知りはひとりもいなかったのに、みな若くて町の人間だった。彼らは警察憲兵に腹を立てていて、いまは民衆の口伝えのありとある形容辞と侮辱に加えるに新しい、はるかに由々しい《裏切り者》という罵りを浴びせかけていた。ほとんどみな武器を、拳銃や長大なピストル、最新型や旧式銃を手にしていて、背中にリンパ腺腫みたいな手榴弾の脹らみを見せている者もいた。喚声や憎しみよりも、即座の了解、流血の合意に、彼らは酔っていた。彼らのなかの最も年配者、どう見ても五十歳には届かぬ男が、ほかの男たちはみなとうに牢獄襲撃と脅したりすかしたりで投獄された家族たちを解放する策を練っていたplannedというのに、あらゆる警察への生来の憎しみをこめて、けれども商品市での掛け声みたいに陽気に、憲兵たちを呪いつづけていた。
誰もが一斉に口を開いたが、それでもみな奇蹟的にも、迅速に完全、明白な合意に合流していった。大多数の者は家族の遺物か、それとも奔流となって逃亡した第四軍団の土まみれの遺産かで武装していた。広場に民警団長がその太って高血圧症で藪睨み、擦り切れた革脚絆の上にのろくさ歩く、勲章やら総やらが夜目にも輝く姿を現した。片手を上げると、最も親身な声を出して言った。「諸君、解散なさい。諸君、私の言うことを聞いて、解散なさい。むろん、これは命令ではなくて、家長としての忠告だ。諸君、家に帰りたまえ。」どっと大笑いが彼に答えた。いくらか辛辣さの水脈をまじえた、まっさらの哄笑だった。しかしあの男はそんな笑い声の下でよろめいた。フットボール罰金の守護聖人、町警察の第一人者がそのけちなpetty制服姿を、停止信号stopみたいに、どんな将軍の記章の上にも決然と唾を吐きかけようという者の前に、立ちはだからせた。屈辱感がその声を励まし、ぐらつくtottering姿勢をしゃきっとさせて、最前の忠告の代わりに半ば命令を発した。しかしそのとき夜の集団のなかから一人の少年、たしかに庶民の家々(あの悪臭を放つ谷川に面した避病院とカスバの混ぜ合わせ)の一匹の大鼠だ、が進み出て、十九世紀の代物じみた目を疑うばかり長大なピストルをまえに差し延べ、その撃鉄が大袈裟な、血も凍るかちりという音をたてた。小柄な少年が銃口を官憲のofficial腹の真ん中に突きつけて、回れ右と命じて、こんどは腎臓の上に長大なピストルを突きたてて市役所のアーケードまで歩かせmarshalled、防空団を思い出させるUMPA remembrance哨所に男を押し込んだ。「また外に鼻面を出したら、おまえに禍あれ!」みなは素っ気なく短く笑った。いまは憲兵たちの番だった。
彼らは憲兵隊舎に向かったが、一度も振り返らずに、自分たちの数には驚くほどに無関心だった。人びとは〈九月八日〉以来のわれからの病的な冬眠から否応なしに追いだされて、戸口や窓から身体を突きだしていた。どの戸口からも若者たちが大きな人の流れに合流してゆき、年配の男たちは不屈の無言で頷き、ほかの男たちは用心深く抜け目ない声で用心深さと抜け目なさを助言していた。中央広場ではほかの集団が東西南北の通りから進みきて、合流して口数少なく同調して固まった。肘突きあわせてジョニーと並んだ少年は声価の高い狩猟用ライフル銃を肩に担いでいたので、またしてもジョニーはばかげたことに隠してしまったおのれの拳銃のことを思って歯噛みした。
憲兵隊舎に到る前のこれで最後の通りを彼らは進みゆき、弾力のあるひと固まりとなって、両端の少年たちは建物すれすれに歩いて、窓辺から身を乗りだして、色目を使いながら、性的に昂奮している女たちの顔を掠めていった。みなの先頭を切って進む少年は、メガホンを振りかざしていた。
憲兵隊舎は孤立した緻密さのなかに嵌めこまれていたが、黒ぐろと密閉されて、いまではこの世で最も淋しい建物、月の砦みたいに映ったし、死人の分身みたいにその陰気な影をくっきりと、十二月の月夜の白い路上に落としていた。すぐに突き当たりの球技場の柵に阻まれて、四メートル道路にぎっしりと壜詰めになって、誰もかもが正面に陣取った。おのれの持ち場あるいは足場footholdingを取って固めながら、ジョニーは思った、もしも憲兵たちが憎しみか、それとも恐怖にかられて、連射したなら、皆殺しになるぞ。そしてルチアーノはそのことを大人の大きな声で滑らかに言った。けれども誰もコメントも移動もしなかったし、あのどん詰まりの密集陣のなかで各人が独りだった。そのうちにあの見知らぬ少年が早くもメガホンを口に当てて、隊舎正面の手前の前庭front-garden、残忍な正面を飾るばかげて信じがたい緑の愛嬌を囲んだ密な鉄柵めがけて、武器みたいに掲げた。
「憲兵たち!」
その声は、近距離からの一斉射撃よりもずっと致命的に震え上がらせるように、壁に窓の鉄格子に跳ね返ったし、メガホンが少年の声を太らせて、その声量を不自然なものにしていた。しかし完全な沈黙が隊舎をなおいっそう孤立させて、強化した。
「王-国-憲兵たちよ!」
まだ返事はなかったけれど、盲格子からは風にそよぐ葉枝みたいに何挺もの銃がこちらを狙っていることは容易に想像がついた。
「憲兵たちよ、ぼくはきみたちと話しているのだ。ぼくの声がきみたちに聞こえていることは分かっているんだぞ、憲兵たちよ。ぼくらはただ投獄された人びとを解放したいだけなのだ。ぼくらに監獄の鍵を渡すか、それとも看守たちに電話してくれ。きみたち憲兵は、何も痛い目には遭わないことだろう。ファシストどもがしでかした卑劣な行為だったことは、きみたちもぼくらと同じくらいによく知っているはずだ。だから、ぼくらはその行為だけを無効にしたいのだ。さあ、憲兵たちよ、待っているのだから、ぼくらに返事をしたまえ。」
何もない、さらに何もない、ついに一人の少年が辛抱しきれなくなって、建物正面を狙って、鉄柵の上を掠めるように手榴弾を投げた。けれどもずっと手前に落ちて、庭の若い桜の木を直撃して赤い暈で包んだから、若木はその刹那、X線に照らしだされたかのように闇のなかに浮かび上がった。すると、隊舎の中二階から警告の機関銃が高めに一連射されて、球技場の遠くの石壁に当たって潰れた。銃弾は真っ白な埃のなかに凍って落ちたdropped。一人の男がメガホンを少年からひったくって囲いの低い壁の陰に駆けこむと、メガホンを潜望鏡みたいに高く構えた。彼の声は大人のものだったし、メガホンの変声作用さえもその生まれながらの説得力と、その生来の駆け引きの手腕を奪いはしなかった。「憲兵よ、おまえらはみずからの運命を徴したいのだな。機関銃などわれわれには痛くも痒くもないぞ。われわれは小童ではない。われわれはパルチザンだ、汚点を拭い去りに町へ下りてきた、山のパルチザンだ……われわれにも機関銃があるし、憲兵よ、大砲も、装甲車もあるぞ。もしもおまえらがわれわれに攻撃を余儀なくさせるのなら、一分以内に片をつけてやる。だが、そのときにはもうおまえらの言い訳は通用しないぞ。分かったか、憲兵?われわれはパルチザンだ。われわれの仲間には、おまえらの戦友、憲兵たちもいるぞ。」言いおえるなり、みなを振り返って、あの虚仮威しbluffの評価を知りたくて、男は呆れるほどに焦れた顔を見せるのだった。
沈黙の軋る音が、沈黙の原子たちを電子的にフライにする音が聞こえた。やがて隊舎の扉のカシャッという音が聞こえて、月の光と同じくらいに強烈に照らしだされてほとんど目に見えない一人の人影がそこから出てきた。懐中電燈を振り回して、全身に明かりをふり撒いておのれの将校の軍服を示すと、玉砂利の自暴自棄の軋る音のなかを、鉄格子の門まで進みきた。メガホンの男が彼めがけて歩きだした。聞き取りにくい男の話し声が聞こえたが、将校が懐中電燈を彼に向けようとすると、きつい口調に変わったし、将校が集団のほうへ向かおうとすると手荒く引き留めるのが見えた。彼らの話し声はぽんぽん届いたけれど、沼地から吹き寄せる突風みたいに分かりにくかった。合意に達しなかったに違いない。なぜなら、決闘を控えた者たちのリズミカルな足取りで、二手に分かれたからだ。あの男は戻りながら、高い声を張りあげて言った。「総員、撃ち方用意! 装甲車、前進!」
ブラフの見破られる寸前に、憲兵隊が降伏した。叛逆者たちが庭に侵入し、目に見える武器は身に帯びていない憲兵たちは無関心を装って隊舎の壁に向いて並びながら、怒りでぐらつく手でタバコに火をつけた。一分もしないうちに、あのタバコの仄かな明かりで、彼らは気がついた。山から下りてきた、本物のパルチザンなどではなくて、小童たち、たいていはしょっぴいて獰猛な顔で怒鳴りつけて度胆を抜いて小便をかけてやるほどの悪童たちが、家にあった滑稽な遺物で武装しているだけだ…… そこで彼らは俯いて顔を胸に埋めようとしたけれども、それでも恥辱と遺恨を、ブラフに乗せられた火傷を糊塗するのには足らなかった。秩序を守る俸給生活者である彼らの運命を不憫に思っていたrelentedジョニーは、こうした汚らわしい曝露を目にして、再び硬化した。それでも仲間の一人が、三十歳を越えた男が、ほかの憲兵たちがみなタバコをふかして哀れにもむっつりしているのをいいことに、一人の憲兵を掴まえて殴って蹴っているのを見ると、割って入った。「放してやれ。」「おれの親父の分だ!」「こいつはおれの親父の分だ!」「きみの父上に彼が何をしたのだ?」「そうだよ、おれがおまえの親父に何をした?」とその憲兵が愚痴をこぼした。「おまえは何もしなかった。だが、ほかの憲兵どもが、おまえと同じ憲兵が親父をやってもいない盗みのかどでしょっぴいて白状させようと砂袋で代わる代わる胸を叩いたのだ! 以来、親父は死ぬまで咳をしつづけていた。」
そうした事実は匕首みたいにジョニーの胸をえぐって、彼が血と肉から成る男ではなくて、本の紙の繊維から成るベニヤ板みたいにおのれ自身に映るのだった。しかしもうすでに時間がなかった。全てを要求するallcalling本隊が監獄のほうへ歩きだし、その真ん中にあの将校と三人の憲兵が取り籠められていた。将校は盲たみたいに進みながら、自らがしっかりと取り籠められた集団の案内に信頼をおくのも止むを得ないかのようであったし、早くも音をたてて喘いでいた。
ここまでは何もかも町に属する出来事であるかのように見えた。とある町の若者たちの集団がひと騒動起こしてひとえにその町に犯された不正な行為を改めようとした、と。だが、牢獄へと向かう道のなかほどから、奇蹟にも似て自然発生的に同時に『マメーリの讃歌』の歌声が湧き起こった。まるで遠くから、囚人たちと看守たちに知らせるかのようであった。しばらくすると、憲兵たちもコーラスに加わったけれど、声は出さずに口を動かしていただけだったかもしれない。
彼らは監獄と隣接する教会のあいだの狭い道に堰き止められて讃歌を歌いつづけながら、高い塀のなかでも再び讃歌をくり返し歌っているのを耳にしたし、その間にも将校は鉄鋲の打たれた大扉を叩きつづけていた。看守たちは納得しないばかりか、覗き穴から覗いて将校を確かめようとさえしなかったし、いくつもの拳銃に押されてあの将校の言うことはみなあべこべに解釈せねばならないと思っていた。讃歌は荒い息遣いのなかで霞んでゆき、短気な喚声に喉を譲った。看守たちは扉を開けると、両側に身をこごめて、勝ち誇った集団暴走stampedeに巻き込まれまいとした。数十人の検束された人たちが、監房への悪寒と監房の不足ゆえに、狭い中庭や階段にとうに集まっていた。互いに抱きあって、キスしあっていた。「ジョニーよ、ぼくの母さんにキスしておくれ、きみを見たがっているんだ」と、徴兵忌避者のひとりが言った。背中じゅうをポンポン叩かれながら、ジョニーは言われたとおりにした。解放された人びとはみな口々に看守らはよくしてくれた、物分かりがよかったし、とても人間的だった、としきりに言った。あの将校は、むせた声で、とくに誰にというでもなくみなに言っていた。「後生だから、気をつけて、一般囚が出ないように、気をつけて!」監獄の衛兵たちは、悲鳴を上げて、すっかり浮き足だって、汗だくの南イタリアの小男たちは、彼らにはよく知られて他の大多数には閉ざされている地の利を活かして、到る所に這っていっては、合掌して、職務と命令を呪って、その夜の着想と出来事と当事者たちを祝福して、方言で話している者に彼らが分かるようfor their ears' sakeイタリア語で話すようにと空泣きをしながらsnivellingly頼むのだった。
硝酸塩を含んで悪臭を放つ石塀を背にある男が話していた。「成さねばならぬことだったし、上首尾だった。しかし、その結果、招く事態というものがある。ファシスト軍はこれを軽視できないし、さもなければ彼らの負けだ。大規模な報復が二十四時間以内にあると覚悟せねばならない。あの将校にはわたしらは何もできないが、彼は隊舎に戻るなり、電話に飛びついてファシスト軍に報告に及ぶことだろう。」疲れ切って、いまにも倒れそうで、まるで好戦的でない彼をちらっと見て、まさにそんな電話をするには彼は最後の力を振り絞らねばならないだろう、と彼らは感じた。「みな丘の上に登って眠るほうが少しはましだし、あるいはせめて泊まるところを変えるくらいはすることだ。そうして明日は一日じゅう姿を隠しているように。」
何もかもが終わったし、いまでは残っている者たちはわずかだった。勝利と自由の讃歌が静まるsubsidingにつれて、立ち去りがちになり、一般囚と看守を中に大扉が再び閉められるように、彼らは狭い中庭から出た。最初の大きな蜂起のあとの心地よい疲労感に浸りながら、They tottered a little彼らはいくらかふらついた。ほんとうに大きなひと揺れであったし、あの将校は建国いらい何世紀にもわたって揺るがしえなかったイタリアそのものだった。信じがたいことだったが、真実だった。「あと少しきみと歩いてゆきたいところだけれど、ぼくは疲れてしまった」と、彼は従兄弟に言った。「明日、丸一日過ごしに、丘の上のぼくのところに来てくれるかい?」
彼は家路についた。これまで一度もそんなふうに歩いたことはないくらいにゆっくりと歩きながら、うわべは倦怠感に包まれて、心のなかでは微笑め、しどけなく、ばかみたいに、とおのれに言い聞かせていた。北国の十二月の凜とした寒さのなかを、五月の終わりころの気温の釣り鐘状のカプセルにすっぽりと包まれたかのように歩いていった。家に着くなり、コップ一杯の水を一気に飲み干して、その冷たさが彼を騒ぎたつ夢からすっかり覚ましてくれた。廊下に出ると、両親の寝息が代わる代わる続けて、聞こえてきた。彼は立ち止まって、両親の夜のあの息吹の魔法の下に長いあいだ立ち尽くしていた。「ぼくは両親の寝息を気にかけたことは一度もなかった。いつの日にか、消えてしまうこの寝息を……」両親はこんなにもお人好しに眠っている。なのに彼はその間にもおのれの人生を生きていて、公権力とその施設を、はるかに防備の固い相手が無力のときに、実質的には武力攻撃して…… 父親の寝息の揺るがぬことには信用がおけたけれども、母親の寝息となるとそうはゆかない。彼女はいつも片目だけつぶって寝ているくらいだった。実際、彼が両親の寝室の入口を通りすぎようとしたときに、彼を呼んで、身体は起こさずに、彼に尋ねた。何があったのか、大騒ぎが聞こえたし、大きな歌声や拍手までして、でもたぶん幻聴だったかもしれない…… 「何が起きたの?」「何も起きなかったよ。」「それでも……」「もし何かが起きたのなら、明日の朝になれば分かるさ。」「明日の朝……」「眠ってしまえば、明日の朝なんてほんの一瞬後のことだよ。」
床について、うつ伏せに寝て、柔らかなベッドの上で、かつてないほどに重さのあるわが身を感じて、そのときほどに彼はおのれの大きな重さ、おのれの驚くべき男としての具体性の、はっきりとした可塑的な感覚を覚えたことはなかった。
朝になると、町じゅうが前夜の武力解放のことでもちきりだった。そしてくすぐられた空想力が優ったかのように、すべての手柄と責任は幻でも真実の高い丘の上のパルチザンたちに注がれて、実際に装甲車だって繰り出していたし(機銃を回しながら、町の城門際でその動的な静止状態のまま待機しているのを、誰が見なかっただろうか)、山岳兵の将校たちが指揮していて、そのなかにはジョニーという中尉もいた…… 「おまえそこにいたの?」と、あるかないかの疑問をこめて、母親が尋ねた。ジョニーは片手をひらひらさせて、おのれの参加の度合いの軽さとその結果の及ぼすものへの懐疑を分からせようとした。ちょうどそのとき町役場の取次ぎ頭が訪れてノックした。教会の古い宗派の男で、とても有能で慎重でバランスのとれた男なのに、取扱注意の区分を再び開くのにすべての終わりを待たなかったのだった。話したいのはジョニーの父親とだったけれども、ご家族おそろいの場でお話ししてもいっこうに差し支えない、こんなにも卓越した、立派な……不幸な家族であってみれば。老人が《不幸な》と音節を切って言ったときに、母親の手のなかでラバールバロ酒の壜が震えてチンチン鳴ったけれども、いまは老人は微笑みながら、白い手をひらひらさせて詫びていた。彼が言った、前夜の出来事のゆえに報復を覚悟せねばならないが、彼の知るところでは、報復は町の二十人ほどの人士を、無期限に人質として、一斉逮捕することで実行されることだろう。そのリストはもう仕上がっていて、ファシストの老弁護士チェルッティによって、いまや彼が若返ることになった遠くの黒シャツ旅団に入隊する前に、裁判所の者に手渡されることだろう。何もかもあらかじめ決められていて、各逮捕チームが何時に動きだすのかも彼は知っている。「分かりました、ありがとう、ですが……」と、ジョニーの父親が不明瞭に言った。「あなたはリストの五番目ですぞ」と、そのとき取次ぎが言ったが、声は宥めるみたいだった。「わたしが?」「あたしの夫が!?」「ぼくの父が!?」「でもなぜ?」「社会主義者だから。」「このわたしが!?」「あたしの夫が社会主義者!?」
ジョニーは、激しやすい涙の岸辺を洗う、ヒステリックな笑いの発作に見舞われてしまった。彼の父親が社会主義者だって! よかろう、父親がそんな話までするごくたまさかの折りに、耳を傾けてみれば、ジャーコモ・マッテオッティの暗殺はどうしても父の腹に据えかねることだったし、かの〈主義に殉じた人〉の黄昏派的なポートレートと《私のなかの思想は死なない》とはときおり父を途方もなく感動させる偉大な力を持った唯一のものであったかもしれないが、だけど……社会主義者だなんて! 父親は沈黙して、たぶん遠い昔の霧のなかからチェルッティ弁護士の邪悪な老耄顔をまた釣り上げようとしただけかもしれなかったが、母親は呼吸困難と肝炎の発作に見舞われた。しかし、口あたりのよいラバールバロ酒の油を注されて滑らかに快くなった声で、宥めるように柔和に、取次ぎが割って入った。「後生ですから、発作など起こさないで! 他愛のないお喋りではありませんが、悲劇でもないのですから。私の言うことに耳を傾けてください。私が忠告する小さな犠牲を払ってください。〈九月八日〉以来あなた方の息子さんが身を隠されていた丘の上の小別荘に、三人とも、みなさんで向かってください。」そういう彼の考えに、三人とも一緒に頭を擡げた。なるほど、司教区の男がそう言っているのだった。「一週間以上はそこに留まらずともよいってことだって、充分ありえますぞ。家の戸締りをよくなさっておいてくだされば、私が日に一度は見回って、何事もないかどうか確かめる、とお約束致します。しっかりとお約束しましたぞ。」
その場で決まったし、彼女にとっては世俗の叡知の裏切ることのない師匠である教会関係の男たちへの全面的な信頼をこめて、決めたのは母親だった。「このことを知るのは私と司教総代理さまだけとなるでしょう。」と、取次ぎが言った。「司教総代理さまもこのことを承知なさっていてくださることはあたしの願いです。」と、その自覚のない儀礼上の天才ぶりを発揮して、母親が言った。「一週間以上はそこに留まらずともよいとよろしいのですが、私の知らせのあるまではそこを動かずにいてください。私の報せを待つのですぞ。」と、感謝の言葉を躱しながら、辞去していった。
ジョニーは母親に雪靴だけを薦めて、しかもかなりの躊躇いをもってそう言ったのだけれど、母親の直感のニトログリセリンを燃えあがらせる蝋マッチとなったのはこのことではなくて、スーツケースに詰め込む段取りのことに彼女はすっかり聾になってかかりっきりになっていた。ジョニーは軽やかに屋根裏部屋に登って、拳銃を取り戻した。
午後の一時には、穏やかで草臥れる登り道のあと、彼らはすでに丘の上にいた。ただ母親の金銭上の気掛かりだけが水をさす山歩きだった。「うちのお金は見越したよりずっと早く消えてゆくわ。」父親が言った。「金はまた貯えられるが、生命ばかりは誰もまた貯えられやしないからな。」ジョニーが言った。「金の心配なんて止しなよ。事が終わったら、ぼくが働くよ。それに夏までには何もかも終わるはずだし。」
小別荘は野性に返った、新たな佇まいだった。そして辺りの何もかもが完全に冬のjemale、新たな佇まいだった。川も平地も丘も、何もかもが春の復活なしの墓地を予感させていた。町は、黒ぐろとした待機の昏睡のなかに、寒の不動の靄のあいだに、不安に灰色がかって見えた。あんなにも不吉な外観を呈していたので、町の外にいることにかえって心が慰むのだった。マリダMaridaに関しては、その場所、生け垣、小径、丘の鞍部が。
When yellow leaves, or none or few, do hang
黄色い葉の、あるかなきかの二、三枚が、垂れるときに
Upon those boughs, which shake against the cold,
寒気に震える、そうした枝々のうえに、
Bare ruin'd choirs, when late the sweet bird sang...
晩くも小鳥が甘美に唱ったときに、雨曝しの朽ちた内陣……
-
肝炎を患っている母親が苦労しながら彼のためにもベッドを整えているのを見ると、彼は後悔した。あのベッドは、土壇場でおのれを裏切らないかぎりは、彼が使うことは決してないだろうに。だからって、あのことを母親に言えたろうか?
その日の午後と夕べとはナイアガラ滝みたいにniagaricamente真っ逆さまに暮れてしまった。すべてが死に、闇と風だけが残って、強風が母親の神経を鋸で挽いた。彼女はロンドン放送をアドレナリンおよび麻酔剤として必要としていたので、ラジオがないために発作を起こした。ところが、父親のほうはその不分明で曲がりくねった順応性からか、心理的な新しさのなかにぬくぬくと住みついていた。彼らは呆れるほど早く床に就いて、父親は身体上の精力的な昂揚の高まりと砕かれえない安全に浸りきって両手を擦りながら、子供にかえった信じがたい声で口ずさみながら言うのだった。「外でこんなに風が吹き荒れているときに、布団のなかで寝ているのはなんて素敵なんだろう!」
ジョニーはしばらく本を読むからと言っておいたのだが、階上でupstairsどんな物音もしなくなると、マーローの本を脇へ退けて肘をついてelbowed down、その短さとビジネスライクさbusinesslikenessに悲壮なものを覚えながら、あの手紙を書いた。それは主として母親に宛てたものだったけれども、そうすることは最小とはいえ、やはり悪だった。母親の裡で創造愛と所有愛が決闘するのをこの目で見るde visuという考えには到底耐えられなかった。うら寂しいdreary丘の上で、あの手紙を前にした彼女の朝となるであろう、その朝を想うことは、胸のはり裂けるheartrendingようなことだった。短すぎて堅苦しいあの手紙は、もしも彼に……冒険の結末が悪しければ、彼女にとって残りの人生を通じてたった一つの形見の生命のかけらlife-pieceとなるかもしれないというのに。それからおのれの新しい徴をそこに残しておくかのように、再び紙のうえを指でなぞって、母親が確実に見つけるように、それなら、もし……だけど彼の母親は勇気のある強い女だったし、彼が冒険を開始するのに要する物事を引き寄せる術はおもに彼女から知ったのだったしand mainly from her he knew to draw the things for his opening adventure、おまけに敬虔な誇りの真っ直ぐな気質さえも。
最新の動作については、まったく音をたてない、おのれの忍び足、長年培ってきた天賦の才を、彼は信頼した。何もかもうまくゆき、拳銃はすでに胸の上にあったし、いまは身体の一部になって、とうに働いている筋肉みたいだった。ただ雪靴だけは、外に出て、轟々と吹きすさんで酔わせる風のなかで、履くことにした。
最も高い丘々、その不動さにおいてできるかぎり彼を助けてくれるであろう父祖の地に向けて、黒ぐろとした風の渦巻きのなかを、男はその普通の人間の大きさにあるときに何と偉大なのだろうと感じながら、彼は発った。そして発った瞬間に、彼は権限が──死そのものもそれを剥奪することのない──イタリアの真の民衆の名において、あらゆる方法でファシズムに反対し、判決を下し、執行し、軍事的かつ民事的に決定する権限が、おのれに与えられたのを感じた。そんなにも大きな権力は酔わせるものであったけれども、しかしそうした権力を彼が正当に行使してゆくという自覚のほうが果てしなく遙かに酔わせるものであった。
そして身体的にも彼はこんなにも男であったことはなかったし、ヘーラクレースのように風と大地を撓めながらゆくのだった。
第十九章の終わり
(以下、工事中)
フェノッリオ パルチザン・ジョニー〔第二の遺稿〕[Ⅰ]
パ ル チ ザ ン ・ ジ ョ ニ ー
〔第二の遺稿〕
[Ⅰ]
最初の冬(最終章の直前の章)
ジョニーはますます腹を立てていた。あの赤い星はみな、初めのうちは数人の鳥打ち帽や鉄兜だけの特権だったのに、いまでは誰もが、大多数は義務みたいに赤い星を散りばめていた。しかもみなが笑みもなく、とはいえ苦情もいわずに赤い星を縫いつけていた。ファシストの斧に棒の権標に対するに、最も自然で申し分ない旗標と釣合い重りになるのだから、と。可笑しいのは赤い星の唯一の、あるいは最大の供給源はここいら一帯の村々の幼稚園のシスターたちだということだった。彼女たちはなにか悪感情と同時になにか慈愛深い入念さをこめて赤い星を製造した。だからシスターへの支払いを誤魔化したりひき延ばしたりは考えられないなら、彼女たちは恐ろしい債権者だと、マーリオ准尉が頷いた。
旅団はいまでは百人くらいの組織になり、たぶん十人くらいに軍隊経験があった。ときおり敵味方不明の遠く不可思議な銃声が、春の懐胎にいそしむ高い丘々の天来のゆるぎなさを鞭打っていた。あの最初の太陽とあの武器をとったままの無為のなかでとろ火で煮られていたパルチザンたちは、そうした銃声の曰くありげな源に、むしろ怠惰に頭だけを振り向けた。そこでジョニーは不満と恥ずかしさに悶えていた。世界大戦の広大な戦線のなかで彼には最も高い丘の禿げた土の数メートルが割りあてられ、四分円ちゅうに位置するピエモーンテの一つ、二つの小都市の穴からおそらく出てくるファシスト軍の一団に真っ向から向かい合っているというのに……死んだティトーのかけがえのなさがいまさらのように作用していた。それにしても、「ぼくと似た境遇の男たちは、どこで戦っているんだ?」と、解読しがたい平地に逆落としの頂の山道に、街道に、ジョニーは尋ねるばかりだった。
自然界の好転もいまは彼を刺戟して、身体の要求にまた火をつけた。冬には、武装したまま肉絶ちの四旬節にいるかのように、耐えることができたのに、いまはあらゆる体液が体内を駆けめぐり、戦闘という膿=噴出のなかに消えてゆかずに、徐々に彼を中毒させていった。いまでは彼は長い夢を、しばしば目を開けたまま、軽佻に疲れ切るまで見た。ビクーニャ織の服を着て、娼婦や女教師たちと散歩をし、タバコを燻らして、最高にat his best会話を楽しみながら、力のかぎりat his mighties〈t〉セックスして、優美なサロンでアングロサクソンの音楽を聴きながら、気楽な甘くて苦い雰囲気のなかで、彼の周囲のすべてが誰もがその最も熱心な礼節への努力keenest endeavour to civilityに浸っていた。
C...u`の遠い昔の娘が基地にまた姿を見せた。その昔ながらの金箔貼りのバンダナを頭に巻いて、相変わらず挑発的な足取りで、あのころのままだがいまは着古して擦り切れたスラックスを穿いて。小人国のlillipuziane窓みたいな小窓から待ち伏せるように窺っている村人たちを射殺すように横目で見るなり、司令部のなかへずんずん入っていった。その日の午後じゅう夜もそこにいた。この出来事を評しにジョニーのもとへトリーノの労働者レージスがやって来た。地の精みたいな彼の無口さを、あの獣の世界でせめて彼のまったくの臭いのなさを、ジョニーは大いに買っていた。
レージスは薄い唇を内側にさらに吸いこんで老いも露わに首を横に振った。彼が言った。いまは女たち向きの時でも場所でもない。ここでは女などまったく見かけもしなかったのに、女たちを受け入れて、楽しんだパルチザンに悪いことが起こるのは自明のことだ、と。もうひとり、以前みかけたことのない男が割って入ってきて、不躾で熱っぽい顔を突きだして大きな声で言った。彼は司令部と何ひとつ分かちあわなくても一向に構わないのだがただ一つ、隊長たちが女とやるのだけは我慢できない。女とやることだけがおれの自慢できる技なのに、と。だが、それからしばらくして娘が出てきた。これから長い道のりを歩きとおす者の足取りで、情事のあとを偲ばせるような風情はどこにもなかった──女の摩訶不思議なわかりにくさよ!──そして当惑したパルチザンたちのあいだを、まるで叱咤するみたいに、エネルギッシュに彼女は通り過ぎていった。
翌朝、トラックが頂上下り口に待機しており、ビオーンド中尉が脂でてかてかの革の長靴を穿いて、片手で部下たちを急かせていた。ジョニーは遠く離れて立ち止まった。その朝、彼は腹具合が悪かったし、ティトーの死後、彼なしの初めての戦闘が怖かったから、荷台に攀じ登る男たちを、当てにならぬunreliable拒絶しうるよそ者たちと見なしていた。彼は疾病届けを出して、初めて出撃を拒もうとしたが、ビオーンド中尉がドアのところで眉を寄せて苦い口をすぼめながら彼をじっと見ていた。そのとき中尉のブロンドがすっかり白髪になったかのようにジョニーは彼に目を凝らし、それからトラックのほうへ歩きだした。
中尉は彼を自分と一緒にキャビンに乗せた。そしてジョニーはすぐに気分がよくなった。頬を掠める風と、キャビンという主要かつ責任ある位置そのものと、ビオーンドの無言で気づいている近さが彼の気組みをしゃきっとさせてrearranged his frame、荷台に乗りこんだ見えない男たちについても少しましに考えはじめることができたし、カーブでスリップするごとに機関銃の三脚の鼠みたいなタップがルーフから滑り落ちるtappingと喜んで上を見あげた。ビオーンドがとても落着き払って、こんなにも無口で、まるでいないみたいか無呼吸みたいなので、ジョニーは戦闘について彼に訊く気にもならなかった。しかしやがて質問しないのはいまの場合不自然だし批判ものだと思えてきて、彼に尋ねた。ビオーンドは彼らがカッルウへ下りてゆくところだと答えた。村に政治書記が戻ってきたことを、その銃殺や流刑や放火の恫喝に痛撃を加えるために、あの娘が通報したのだ。あの娘のふたりの兄があの書記の告発のせいですでにドイツへ送られたのを、ジョニー、きみは知っているか?「ああ」と、ジョニーは言った、「清掃作戦か?」「こうしたこともやらねばならんのさ」と、控え目な嫌悪をこめてビオーンドが言った。
平地では雪はすっかり溶けて、どの牧場も色とりどりの花や草で敷きつめられていたし、街道は冷たくさやかに見えて、すべてがアクセントのある風通しによって縦断されていて、太陽は華奢な鐘楼のうえで文字どおりはためいていた。それゆえ、ジョニーには何もかもがまさに遠い昔evi.の中世や古代の人間社会のことを語りかけるのだった。彼は風景がおのれを吸収するにまかせながら想い描いた。彼はいったい何をしたくて何ができることだろう。そして誰と。一目でアルプスに源を発すると分かるあの清流bealeraと平行に走るあの光沢のある街道を走りゆくにつれて除々に現れてくる、あんなにも銀色に冷たく生き生きとしたポプラ並木のもとで、そのカフェオレの香りたつあんなにも見るからに平和な小村の小広場のなかで。平和を愛するあまり心臓が彼のなかで嗚咽した。だから、二叉路で起こったことを彼は少ししか、あるいはまるっきり、見なかった。彼は夢のなかで見た。黄色い流線型の染みが右手から飛びかかってくるのを。瞬間、目をつぶり、トラックの横っ腹にそれが激突する音を聞いた。目をまた開くと、おのれの胸と平行にビオーンドの軽機関銃の鈍く光る銃身が、相手の車の粉々に砕けたフロントガラスに狙いを定めていて、男たちはすでに後ろからどすどすと地面に跳び下りていた。
彼はぎこちなく地上に降り立つとクリスタルガラスみたいな大気のなかで大笑いした。ひしゃげた軍用車からドイツ兵が這いだしつつあったが、彼らがあまりにもショックを受けて立ちつくすので、誰ひとり彼らに手を上げろと命ずる必要を見出さなかった。パルチザンたち自身が興奮して群がって、偶発事故によって武装解除されたみたいだった。ビオーンド自身、軽機関銃をぶらさげて、この事故の前には処置なしのhelpless様子だった。ドイツ兵のひとりが身震いしながら、弾薬盒を掠め取るパルチザンたちのあいだに聳えたっていたが、手を上げろとの命令にも聾で、かぼそい声を上げながら、潰れた車内のほうに幼児みたいに嘆きながら身体をさしのべた。運転兵ともうひとりの兵士は無事に抜けだしてきたが、将校がひとりまだシートの上で身体を捩りながら、挫いた足をdisabled指さしていた。すでに車外に出た三人のドイツ兵を退かす何の方法もなかった。彼らはパルチザンにはまるで無頓着nonchalantみたいで、それどころか救助活動の指揮をとりたがっている気配がありありだった。しかしいまはパルチザンたちの興奮も冷めて胸元に銃口を突きつけてようやく彼らを大破した車から遠ざけた。そのときドイツ兵らは移動しながら口々に子みたいに言った、《Herr Major[少佐殿]》。
ビオーンドは、その車が縦隊全体の前衛であった場合に備えて、黄色い車がすっ飛んできた街道の方角に機関銃を据えつけた。しかし、最初からあの路は彼らの目にはその無人のさまが際だっていた。ビオーンドは実に苛だっていた。「最低だ。余計なお荷物だ。どうであれ、とにかくネーメガの決めることだ。やつらはすぐに攻撃してくることだろう。」
いま初めてドイツ兵たちはあの衝突事故が実際には待伏せに変じてイタリア人パルチザンの捕虜となったことを納得したようだったが、それでも彼らの宙を飛ぶ目は彼らの少佐だけを求めていた。後者はまさに引きだされつつあった。すっかり血の気のひいた唇で、骨折ゆえのうめき声を塞いで、かぼそい息しか洩らさなかった。苦悶して、こめかみに生ずる冷汗は、濁った葡萄の小核みたいにゆっくりと長持ちする固まりの白い斑点になった。草の生い茂った堤にそっと置かれたが、その大仰な軍服よりも遙かに劣る、ちっぽけな反物屋だったa tiny dapper man。
「きみ、ドイツ語わかるか?」と当惑しきってビオーンドが聞いた。
「ナイン!」ぴしゃりとジョニーが言ったsnapped。
少佐は母国語で話していたが、穏やかな譫妄状態にあるかのように、言葉はゆっくりと、曳きずりどおしだった。
カッルウでの約束を反故にするわけにはゆかなかった。そこでビオーンドがドイツ軍車を溝に顛覆させろと命じ、パルチザンたちは子供みたいにむきになって実行したが、うち三人はすでにドイツ兵のばかでかい軍帽を、慰みにあみだにかぶっていた。車は溝の底に収まって、埃と油に塗れた腹を見せ、いささか異形の亀にも似て、敵意溢れる姿となり、イタリア人に対する戦争のために憎しみのなかで製造されて検査合格したのだと言っているかのようだった。三人の兵士は呼ばれると、彼らの将校を子がするみたいに持ち上げて、発育の悪い低木地帯まで担架で運ぶみたいに運んだ。トラックはその予断を許さない路面保持性能を試されていた。そのときビオーンドが全員乗車を命じ、ジョニーともう一人、狆くしゃのルネを残した。「こんな厄介事ではぼくが全面的に信頼できるのはきみだけだ。二時間ぼくを待ってくれ、道路からは完全に隠れているんだ。彼らが可笑しなまねをしたり、やつらの車が路上に止まったら、きみとルネで彼らを片づけて高台に近道してくれ。」それから彼はガンベルトにP38を三梃ぶら下げてトラックに向かった。その二時間たらずのあいだに何事も起こらなかった。ドイツ兵たちは彼らの将校にかかりっきりで、窮屈だが親しげなドイツ語で話して、ルネをひどく苛だたせてしまい、後者はときおり怒りを爆発させた。「なんて言ったんだ、ドイツの豚野郎?」ジョニーが察したところでは彼らはもっぱら骨折のことを話していた。ズボンの異常な、示唆的な折れ方からすれば足はまったく使い物になりそうもなかったdisabled。おまけに彼らは自分たちの誤解の余地のない捕虜の状態についても無関心に見えた。戦争の協定にぬくぬくと安心しきっているようだった。帽子に輝く赤い星を見てさえ眉ひとつ顰めなかった。
トラックは思ったよりも早く戻ってきて、ビオーンドは頭を少し働かせて少佐を寝かせるためにマットレスを調達するという余裕さえ見せたが、後者はこれも彼のために中尉が見つけてきたコニャックの一滴をイタリア語で断った。パルチザンたちはこうした華やかな騎士道と規律正しさを賛否を露わにせずに見守っていた。トラックがハンドルを切ったとき、大きな揺れのためにジョニーは咄嗟に支えを見つけねばならなかった。そしてそのとき彼はあの男、ファシストを見た。
明日のないその男の年齢は五十歳くらいで、あのころには稀な優雅な身なり、型通りの私服の防共民兵のなりをしていた。そしてその陽に灼けた顔のいろは、恐怖と絶望ゆえにいまは腐った鼠色rotten greyに変わっていた。彼の身体はやや多血症ぎみとはいえ、スポーティーで喧嘩好きな男の魅力allureを保っていた。毛深い両手で荷台の縁にしがみついていて、旅のあいだじゅう叛逆者たちの登山靴の泥だらけの集いと荷台から目を上げようとはしなかった。ドイツ兵たちは、他の隅にいて、ほんの一瞬だけ彼を横目で見たが、あの男の本性と境遇を把握したのはほぼ確かなのに、何の感情も見せずに、まるで無関心で、上から寝姿を見るといまやいっそう小さく見える彼らの少佐を世話しつづけていた。
あのファシストは格闘や打擲の痕をとどめていなかったから、捕獲は極めてスムーズに行われたに違いないし、あの物凄い疾走ぶりのトラックに乗っておのれの死刑執行へと向かっていることを彼は承知していた。誰ひとりとくに彼を見張ってはいなかった。まるで彼はすでに無害であり、屍にも似て何者でもないかのように。
(以下、工事中)
〔第二の遺稿〕
[Ⅰ]
最初の冬(最終章の直前の章)
ジョニーはますます腹を立てていた。あの赤い星はみな、初めのうちは数人の鳥打ち帽や鉄兜だけの特権だったのに、いまでは誰もが、大多数は義務みたいに赤い星を散りばめていた。しかもみなが笑みもなく、とはいえ苦情もいわずに赤い星を縫いつけていた。ファシストの斧に棒の権標に対するに、最も自然で申し分ない旗標と釣合い重りになるのだから、と。可笑しいのは赤い星の唯一の、あるいは最大の供給源はここいら一帯の村々の幼稚園のシスターたちだということだった。彼女たちはなにか悪感情と同時になにか慈愛深い入念さをこめて赤い星を製造した。だからシスターへの支払いを誤魔化したりひき延ばしたりは考えられないなら、彼女たちは恐ろしい債権者だと、マーリオ准尉が頷いた。
旅団はいまでは百人くらいの組織になり、たぶん十人くらいに軍隊経験があった。ときおり敵味方不明の遠く不可思議な銃声が、春の懐胎にいそしむ高い丘々の天来のゆるぎなさを鞭打っていた。あの最初の太陽とあの武器をとったままの無為のなかでとろ火で煮られていたパルチザンたちは、そうした銃声の曰くありげな源に、むしろ怠惰に頭だけを振り向けた。そこでジョニーは不満と恥ずかしさに悶えていた。世界大戦の広大な戦線のなかで彼には最も高い丘の禿げた土の数メートルが割りあてられ、四分円ちゅうに位置するピエモーンテの一つ、二つの小都市の穴からおそらく出てくるファシスト軍の一団に真っ向から向かい合っているというのに……死んだティトーのかけがえのなさがいまさらのように作用していた。それにしても、「ぼくと似た境遇の男たちは、どこで戦っているんだ?」と、解読しがたい平地に逆落としの頂の山道に、街道に、ジョニーは尋ねるばかりだった。
自然界の好転もいまは彼を刺戟して、身体の要求にまた火をつけた。冬には、武装したまま肉絶ちの四旬節にいるかのように、耐えることができたのに、いまはあらゆる体液が体内を駆けめぐり、戦闘という膿=噴出のなかに消えてゆかずに、徐々に彼を中毒させていった。いまでは彼は長い夢を、しばしば目を開けたまま、軽佻に疲れ切るまで見た。ビクーニャ織の服を着て、娼婦や女教師たちと散歩をし、タバコを燻らして、最高にat his best会話を楽しみながら、力のかぎりat his mighties〈t〉セックスして、優美なサロンでアングロサクソンの音楽を聴きながら、気楽な甘くて苦い雰囲気のなかで、彼の周囲のすべてが誰もがその最も熱心な礼節への努力keenest endeavour to civilityに浸っていた。
C...u`の遠い昔の娘が基地にまた姿を見せた。その昔ながらの金箔貼りのバンダナを頭に巻いて、相変わらず挑発的な足取りで、あのころのままだがいまは着古して擦り切れたスラックスを穿いて。小人国のlillipuziane窓みたいな小窓から待ち伏せるように窺っている村人たちを射殺すように横目で見るなり、司令部のなかへずんずん入っていった。その日の午後じゅう夜もそこにいた。この出来事を評しにジョニーのもとへトリーノの労働者レージスがやって来た。地の精みたいな彼の無口さを、あの獣の世界でせめて彼のまったくの臭いのなさを、ジョニーは大いに買っていた。
レージスは薄い唇を内側にさらに吸いこんで老いも露わに首を横に振った。彼が言った。いまは女たち向きの時でも場所でもない。ここでは女などまったく見かけもしなかったのに、女たちを受け入れて、楽しんだパルチザンに悪いことが起こるのは自明のことだ、と。もうひとり、以前みかけたことのない男が割って入ってきて、不躾で熱っぽい顔を突きだして大きな声で言った。彼は司令部と何ひとつ分かちあわなくても一向に構わないのだがただ一つ、隊長たちが女とやるのだけは我慢できない。女とやることだけがおれの自慢できる技なのに、と。だが、それからしばらくして娘が出てきた。これから長い道のりを歩きとおす者の足取りで、情事のあとを偲ばせるような風情はどこにもなかった──女の摩訶不思議なわかりにくさよ!──そして当惑したパルチザンたちのあいだを、まるで叱咤するみたいに、エネルギッシュに彼女は通り過ぎていった。
翌朝、トラックが頂上下り口に待機しており、ビオーンド中尉が脂でてかてかの革の長靴を穿いて、片手で部下たちを急かせていた。ジョニーは遠く離れて立ち止まった。その朝、彼は腹具合が悪かったし、ティトーの死後、彼なしの初めての戦闘が怖かったから、荷台に攀じ登る男たちを、当てにならぬunreliable拒絶しうるよそ者たちと見なしていた。彼は疾病届けを出して、初めて出撃を拒もうとしたが、ビオーンド中尉がドアのところで眉を寄せて苦い口をすぼめながら彼をじっと見ていた。そのとき中尉のブロンドがすっかり白髪になったかのようにジョニーは彼に目を凝らし、それからトラックのほうへ歩きだした。
中尉は彼を自分と一緒にキャビンに乗せた。そしてジョニーはすぐに気分がよくなった。頬を掠める風と、キャビンという主要かつ責任ある位置そのものと、ビオーンドの無言で気づいている近さが彼の気組みをしゃきっとさせてrearranged his frame、荷台に乗りこんだ見えない男たちについても少しましに考えはじめることができたし、カーブでスリップするごとに機関銃の三脚の鼠みたいなタップがルーフから滑り落ちるtappingと喜んで上を見あげた。ビオーンドがとても落着き払って、こんなにも無口で、まるでいないみたいか無呼吸みたいなので、ジョニーは戦闘について彼に訊く気にもならなかった。しかしやがて質問しないのはいまの場合不自然だし批判ものだと思えてきて、彼に尋ねた。ビオーンドは彼らがカッルウへ下りてゆくところだと答えた。村に政治書記が戻ってきたことを、その銃殺や流刑や放火の恫喝に痛撃を加えるために、あの娘が通報したのだ。あの娘のふたりの兄があの書記の告発のせいですでにドイツへ送られたのを、ジョニー、きみは知っているか?「ああ」と、ジョニーは言った、「清掃作戦か?」「こうしたこともやらねばならんのさ」と、控え目な嫌悪をこめてビオーンドが言った。
平地では雪はすっかり溶けて、どの牧場も色とりどりの花や草で敷きつめられていたし、街道は冷たくさやかに見えて、すべてがアクセントのある風通しによって縦断されていて、太陽は華奢な鐘楼のうえで文字どおりはためいていた。それゆえ、ジョニーには何もかもがまさに遠い昔evi.の中世や古代の人間社会のことを語りかけるのだった。彼は風景がおのれを吸収するにまかせながら想い描いた。彼はいったい何をしたくて何ができることだろう。そして誰と。一目でアルプスに源を発すると分かるあの清流bealeraと平行に走るあの光沢のある街道を走りゆくにつれて除々に現れてくる、あんなにも銀色に冷たく生き生きとしたポプラ並木のもとで、そのカフェオレの香りたつあんなにも見るからに平和な小村の小広場のなかで。平和を愛するあまり心臓が彼のなかで嗚咽した。だから、二叉路で起こったことを彼は少ししか、あるいはまるっきり、見なかった。彼は夢のなかで見た。黄色い流線型の染みが右手から飛びかかってくるのを。瞬間、目をつぶり、トラックの横っ腹にそれが激突する音を聞いた。目をまた開くと、おのれの胸と平行にビオーンドの軽機関銃の鈍く光る銃身が、相手の車の粉々に砕けたフロントガラスに狙いを定めていて、男たちはすでに後ろからどすどすと地面に跳び下りていた。
彼はぎこちなく地上に降り立つとクリスタルガラスみたいな大気のなかで大笑いした。ひしゃげた軍用車からドイツ兵が這いだしつつあったが、彼らがあまりにもショックを受けて立ちつくすので、誰ひとり彼らに手を上げろと命ずる必要を見出さなかった。パルチザンたち自身が興奮して群がって、偶発事故によって武装解除されたみたいだった。ビオーンド自身、軽機関銃をぶらさげて、この事故の前には処置なしのhelpless様子だった。ドイツ兵のひとりが身震いしながら、弾薬盒を掠め取るパルチザンたちのあいだに聳えたっていたが、手を上げろとの命令にも聾で、かぼそい声を上げながら、潰れた車内のほうに幼児みたいに嘆きながら身体をさしのべた。運転兵ともうひとりの兵士は無事に抜けだしてきたが、将校がひとりまだシートの上で身体を捩りながら、挫いた足をdisabled指さしていた。すでに車外に出た三人のドイツ兵を退かす何の方法もなかった。彼らはパルチザンにはまるで無頓着nonchalantみたいで、それどころか救助活動の指揮をとりたがっている気配がありありだった。しかしいまはパルチザンたちの興奮も冷めて胸元に銃口を突きつけてようやく彼らを大破した車から遠ざけた。そのときドイツ兵らは移動しながら口々に子みたいに言った、《Herr Major[少佐殿]》。
ビオーンドは、その車が縦隊全体の前衛であった場合に備えて、黄色い車がすっ飛んできた街道の方角に機関銃を据えつけた。しかし、最初からあの路は彼らの目にはその無人のさまが際だっていた。ビオーンドは実に苛だっていた。「最低だ。余計なお荷物だ。どうであれ、とにかくネーメガの決めることだ。やつらはすぐに攻撃してくることだろう。」
いま初めてドイツ兵たちはあの衝突事故が実際には待伏せに変じてイタリア人パルチザンの捕虜となったことを納得したようだったが、それでも彼らの宙を飛ぶ目は彼らの少佐だけを求めていた。後者はまさに引きだされつつあった。すっかり血の気のひいた唇で、骨折ゆえのうめき声を塞いで、かぼそい息しか洩らさなかった。苦悶して、こめかみに生ずる冷汗は、濁った葡萄の小核みたいにゆっくりと長持ちする固まりの白い斑点になった。草の生い茂った堤にそっと置かれたが、その大仰な軍服よりも遙かに劣る、ちっぽけな反物屋だったa tiny dapper man。
「きみ、ドイツ語わかるか?」と当惑しきってビオーンドが聞いた。
「ナイン!」ぴしゃりとジョニーが言ったsnapped。
少佐は母国語で話していたが、穏やかな譫妄状態にあるかのように、言葉はゆっくりと、曳きずりどおしだった。
カッルウでの約束を反故にするわけにはゆかなかった。そこでビオーンドがドイツ軍車を溝に顛覆させろと命じ、パルチザンたちは子供みたいにむきになって実行したが、うち三人はすでにドイツ兵のばかでかい軍帽を、慰みにあみだにかぶっていた。車は溝の底に収まって、埃と油に塗れた腹を見せ、いささか異形の亀にも似て、敵意溢れる姿となり、イタリア人に対する戦争のために憎しみのなかで製造されて検査合格したのだと言っているかのようだった。三人の兵士は呼ばれると、彼らの将校を子がするみたいに持ち上げて、発育の悪い低木地帯まで担架で運ぶみたいに運んだ。トラックはその予断を許さない路面保持性能を試されていた。そのときビオーンドが全員乗車を命じ、ジョニーともう一人、狆くしゃのルネを残した。「こんな厄介事ではぼくが全面的に信頼できるのはきみだけだ。二時間ぼくを待ってくれ、道路からは完全に隠れているんだ。彼らが可笑しなまねをしたり、やつらの車が路上に止まったら、きみとルネで彼らを片づけて高台に近道してくれ。」それから彼はガンベルトにP38を三梃ぶら下げてトラックに向かった。その二時間たらずのあいだに何事も起こらなかった。ドイツ兵たちは彼らの将校にかかりっきりで、窮屈だが親しげなドイツ語で話して、ルネをひどく苛だたせてしまい、後者はときおり怒りを爆発させた。「なんて言ったんだ、ドイツの豚野郎?」ジョニーが察したところでは彼らはもっぱら骨折のことを話していた。ズボンの異常な、示唆的な折れ方からすれば足はまったく使い物になりそうもなかったdisabled。おまけに彼らは自分たちの誤解の余地のない捕虜の状態についても無関心に見えた。戦争の協定にぬくぬくと安心しきっているようだった。帽子に輝く赤い星を見てさえ眉ひとつ顰めなかった。
トラックは思ったよりも早く戻ってきて、ビオーンドは頭を少し働かせて少佐を寝かせるためにマットレスを調達するという余裕さえ見せたが、後者はこれも彼のために中尉が見つけてきたコニャックの一滴をイタリア語で断った。パルチザンたちはこうした華やかな騎士道と規律正しさを賛否を露わにせずに見守っていた。トラックがハンドルを切ったとき、大きな揺れのためにジョニーは咄嗟に支えを見つけねばならなかった。そしてそのとき彼はあの男、ファシストを見た。
明日のないその男の年齢は五十歳くらいで、あのころには稀な優雅な身なり、型通りの私服の防共民兵のなりをしていた。そしてその陽に灼けた顔のいろは、恐怖と絶望ゆえにいまは腐った鼠色rotten greyに変わっていた。彼の身体はやや多血症ぎみとはいえ、スポーティーで喧嘩好きな男の魅力allureを保っていた。毛深い両手で荷台の縁にしがみついていて、旅のあいだじゅう叛逆者たちの登山靴の泥だらけの集いと荷台から目を上げようとはしなかった。ドイツ兵たちは、他の隅にいて、ほんの一瞬だけ彼を横目で見たが、あの男の本性と境遇を把握したのはほぼ確かなのに、何の感情も見せずに、まるで無関心で、上から寝姿を見るといまやいっそう小さく見える彼らの少佐を世話しつづけていた。
あのファシストは格闘や打擲の痕をとどめていなかったから、捕獲は極めてスムーズに行われたに違いないし、あの物凄い疾走ぶりのトラックに乗っておのれの死刑執行へと向かっていることを彼は承知していた。誰ひとりとくに彼を見張ってはいなかった。まるで彼はすでに無害であり、屍にも似て何者でもないかのように。
(以下、工事中)
フェノッリオ 原Urパルチザン・ジョニー
原Urパルチザン・ジョニー
第2章
ターザンとセットは二度と帰って来なかった。右手から家に撃ち込んでいるあいだに、片足がだらりとぶら下がって、味方の流れ弾に当たったその足は上から下までナイフで切り裂かれたみたいなのに、セットは気がついた。そこでターザンが彼を担いで最寄りの農家まで引きずってゆき、荷車に馬か牛を繋いで安全な場所までいって手当てを受けさせようとした。ところがファシスト軍の救援部隊が早くも現れてセットの流した血の痕を辿って、麦打ち場で安堵の息をついたばかりの彼ら二人に襲いかかり、たちまち二人を引き裂いた。ターザンはT字路の家まで引き戻されて道端で銃殺された。しかしセットのほうは応急の手当てを受けてタバコまで与えられて一目で徴発されたと分かるマットレスの上に寝かされて、連中のトラックの一番よい場所に載せられた。拾い集めたパルチザンたちの死体が一緒だったという。けれどもセットは胆の坐った、徒な望みを育まない男だった。カネッリに着くや、夜更けに、教会墓地に引き出されて囲い壁に凭れかかされ、無事だったほうの片足で立ったまま銃殺された。そして恐ろしいニュースが護衛隊のあいだに野火のようにぱっと広まった、カネッリの目抜き通りのショーウインドーに明々と明かりを灯して、カネッリのファシスト軍はノルドの父親の亡骸を晒しものにしている。身許書きと罪状書きと懲罰文を記したカードまで縫いつけて、と。そして護衛隊員たちは丘から丘へ、ファシストの堅塁への即刻の総攻撃と、その抹殺と遺骸のひきとりを求めて、叫び交わしていた。叫び声と激昂があたりを包み、マンゴに引き揚げてきた男たちはいまさらのようにその日一日の途方もない疲れに打ちのめされて、戦闘と危険に飽き飽きしていた。ノルドは喪と悲しみの嵐に見舞われて、当座の指揮権を譲り渡し、そのボディーガードたちが勝手に何もかも取り仕切っているみたいだったから、どの丘も稲妻の光る混乱のなかで息をひそめて待っていた。女たちや年季のいった伝令たちがカネッリに潜入させられて、亡骸をさらしものにしている形跡もないし、明かりの灯っているような通りもない、と報告が上がると、誰もかもが青ざめた夜に呑み込まれていった。そしてマンゴにはギアッチとその部下たちへの一片のメッセージが届けられただけだった。その中で、ノルドはおのれの父親の死には触れないで、その日の渋い戦い振りと不屈の攻勢に讃辞を寄せて、彼らは英軍ミッションの讃歎の眼差しのもとに戦い抜いたのだ、と述べていた。
ジョニーの心臓がこの結び近くの二語に鼓動を止めて、彼は濃い藍色の空に燃えるように赤く稜線を浮き立たせた真向かいの丘々に目を向けて、あの上のどこかに彼らはいるのだと思った。そして次の日の午後にはノルドの新しい専用車が高馬力の静けさでマンゴに滑り込み、丸く見開かれたマンゴの男たちの目やギアッチとフランコの郷愁を誘う眼差しのもとで、取ってつけたように恭しくなったボディーガードたちがドアを開けてジョニーを車中に請じ入れた。「とうとう来たるべき日が来た。きみはぼくらにとって失われ、きみの天性の職に就くのだ」と、別れの挨拶めかしてギアッチが言った。「気をつけろよ、ジョニー、〈司令部〉の悪習に染まるんじゃないぞ。」そうして車は病的な不遜さで走りだし、この小旅行のあいだじゅう護衛者は何度も横目でこの物静かな、無口の、まるで自己主張しない兵士をちらりと見た。この男が英語を知り尽くしていて、戦況の鍵を握る男となり、この男に対してなすことは良かれ悪しかれノルドその人に対してなすのと同じと思えというのか。ジョニーはというと、彼は痛々しいくらいに気を揉みながら悲観的で、これまで恋文を、古今の世界史に冠たる恋文を、送っただけの愛しいひとについに逢いにゆく恋人にも似た心持ちでいた。幻滅は邪悪にも百対一の確率で目睫の間に迫っていた。英国史とその偉人列伝から抜けだしてきて、まさにジョニーが期待するようなイギリス人が、夢見た完璧さで会いに来ようはずがない。ジョニーが衝動的に狂ったみたいに首を振ったものだから、護衛者は当惑して彼を眺めた。ぼくはまず低めの水準から始めねばならない、と彼は思った。ぼくは馬鹿者だ。初めて水辺に出て、もうロレンスやローリーやゴードンに近い何かを備えた男たちに出会うことを期待するなんて。
車が泥水を吹き出しながら泥濘の大海に分け入った。そこが司令部中庭で、ルチアーノが彼を出迎えた。ノルドは姿を現さなかった、父親の戦死以来、誰とも会わずに、悲しみと遺恨に埋もれてひたすら丘から丘、谷から谷を歩きとおすばかりで、黒ぐろと日焼けした顔の皮膚に喪を刻み込んでいた。新来のイギリス人たちに碌に自己紹介もしないで、そそくさとおのれの丘ごとの悲しみに舞い戻ってしまい、彼の配下たちはときおり彼の悲しみと遺恨の叫び声を耳にするのだった。英軍との取り決めは一切ジョニーが仕切るように、これがルチアーノを通じてのノルドの命令だった。イギリス人は、彼らのうち二人は、北側の牧場にいて、自ら望んだ孤独に浸りきっていた。そこでジョニーは誰かが書いていたことを思い出して目を瞠った、英国人は孤独にしがみつく。孤独の裡にあってこそ彼らはおのれを非凡と感じるからだ、と。それゆえ聞いてみた。
「あの二人が自分をめざましく感じるのはどこかな?」ルチアーノが吐き出すように言った。
「あの二人はおよそおれの性には合わないね。あいつらが来たのがパラシュート投下のためであるものか、無線も持っていなければ、通信兵も連れてきていない。いったい何をしに降下してきたんだか、行って聞いてみるがいい。」
ボクスホール大尉とウィティカー中尉は北牧場の上端部に立っていて、一見して風景に深く心を奪われていた。彼らは二人とも正装してゲートルを巻き、負い革とベルトに英国製の一流の武器を吊るしていた。左肩にカービン銃、右肩にマーリン銃、腰にはコルト拳銃を匕首みたいに。
そしてジョニーは彼らの一人であったなら、彼らになりたい、と願った。それにカーキ色はまさに彼が生まれついた色そのものだし、彼らのあらゆる経験を共有すること、──そして彼らの生まれ育つ環境、魔法をかけられた島への彼らの郷愁と現在のあの孤独、そして英国史そのものに由来する彼らの魅力、彼らの隊長たち、彼らを待つ女たち、護送船団、アングロサクソン、エル=アラメイン、シチーリア……お茶や、パラディオン劇場での彼らの賜暇の最後の夜、メラクリーノが彼らのために弦を引き……
二人は彼に気がついて、いまは穏やかに彼を観察している。彼は歩みつづけて登り、彼らと合流した。ウィティカー中尉はふつうの若者で(ジョニーと同じ年)、白人世界のどんな川の船上でもまずまずに生まれたことだろう。しかしボクスホール大尉のほうは小さな三角顔が、蜂蜜と真鍮色のやけに透き通った天然パーマの厚い蓬髪の下で、脇へゆくほどに膨れ上がってばかでかい項となりそれがとりもなおさず彼の頭部を成していた。母国語で話しかけられると、彼らは予期したことかのように上品に安堵の溜息をついてみせて、ボクスホール大尉がズボンの大きな前ポケットからクレイヴンの大きな四角い缶を抜き出して挨拶代わりにタバコを一本差しだした。ジョニーと同じように完璧なアクセントを心掛けながら、大尉が言った。「こりゃ、実にめざましい景色だね。」
「ヨークシャーにどことなく似てるかな」と、ほんの読書体験からジョニーがつい口にした。
「そこに行ったことはないが」と、ボクスホールがすげなく応じた。「中尉、きみはそこに行ったことがあったっけ?」
「どこに?」目を覚ましたウィティカーが答える。「ヨークシャーにかい?一度も。」
四時三〇分で、世界は悲しみだった。空は高く、眩暈がするくらい大半は蟻集する鼠色で、冷たく投げ遺りな疾風が、消燈合図の晩鐘にも似て、最寄りの木立の最初の葉っぱをかさこそ鳴らしながら、押し寄せてきた。そしてあの悲しみのなかに冷えきったジョニーの心に釘で打ち込むみたいな想い。「こいつらは哀れなイギリス人だ。このイギリス人たちの哀れさはどうだ!」
ジョニーは気がついた。ウィティカー中尉に対するボクスホール大尉の態度には何か自然な、歴史的服従みたいなもの、ロードに対するヨーマンみたいなものがある。せいぜい皮肉を装いながら大尉が言ったものだ。「こちらじゃ中尉ははなはだ退屈しきっちゃってね。彼はひと乗りしたくてたまらないのだ。違うかね、中尉?中尉の願いを叶えてくれそうな馬がいるかな?」
ジョニーは頭のなかが真っ白になって立ち尽くした。「田舎の駄馬しかいないんじゃないかな、たぶん。」ウィティカーががっかりしてタバコの煙を吹きだし、ジョニーはクレイヴンの喉ごしの悪さに咳をした。彼は立ち直って口を切った。「われわれはあんたらがラジオ発信機を持って通信兵を連れてくると期待していたんだが……」
「きみらの誤解だ、」と落着き払ってボクスホールが答えた。「そいつは後からやって来る──そしてジョニーの顔に失望と猜疑の色が浮かぶのを見て取ると、──まあ、二、三日以内のことだ。なあ、われわれは先遣隊だ。モンフッレトで仲間を待つんだ。“モンフッレト”で、通じるかい?ありがとう。だからそこまで護衛してもらわにゃならん。明日、きみがそうしてくれないかね?」
「すると、あんたらはランゲに止まるんではないのだな?」
「なあ、われわれはモンフッレトのほうがトリノやアレクサンドリアに関して、情報収集のためにも情報活動のためにも格段と良いと聞かされているんだ。分かるだろう?このモンフッレトというのはどんな土地だね?」
「モンフッレトはランゲと同じようなただの丘陵地帯だが、標高はさほど高くなくて……そうだな……言ってみれば、不吉な土地だ。」
「われわれの護送隊長にきみを当てにしてよいのかな?」
「そいつは不可能だろう。あんたらの話じゃミッション本隊が二、三日中にはここに降下するということだし、通訳のためにもぼくはこちらで欠けるわけにはいかない。しかしあんたらはぼくの仲間がきちんと送ってゆくさ。行き先を聞かしてくれるかい?」
ボクスホールは何とか発音しえたのだが、やがて諦めて左胸ポケットのボタンを外すと、ただの絹ハンカチみたいに見えたものを引っ張りだした。が、それは豪華にもテクニカラーの地図だった。彼はそれを擡げた左腿のうえに押しつけながら、モンカルヴォと読み取った。
「その土地は知っている」と、ジョニーが言った。「モンフェッラートのど真ん中にある、大きな、裕福な村だ。」
「ここからどのくらい遠いんだ?」とウィティカーがすかさず聞いた。
「二十五マイルくらいかな。」するとウィティカーはうんざりして急に歩きだし、見るからに退屈そうにどこまでも遠くへ歩いていった。
「あいだに敵の弾幕は?」とボクスホールが尋ねた。
「アスティには大規模なファシストの守備隊がいて、辺り一帯をたえず偵察している。」
「おれの言うのは端的に、もっぱらドイツ軍のことなんだが」と、ボクスホールがすげなく特定した。
「いや、ぼくの知るかぎりでは、そこいらにはドイツ軍はいない。むろん、たまたま出くわすことはありうるが。」
「言うまでもないが、夜間だけ移動してゆく。それに……いったい中尉はどこへいっちまったんだ?」
振り返って彼らは見た。ウィティカーははるか遠くにいて、なんとか分かろうとするのだが一向に要領をえない護衛隊員相手に意図を通じさせようとむきになっていた。彼らはその二人めざして下っていったが、二人は司令部隅石の陰に隠れて見えなくなってしまった。
彼らは行く手を護衛隊軍曹に妨げられた。この男はジョニーにくっついてボクスホールに通訳させようとした。彼はイタリア空軍の戦闘機部隊に入隊して英軍と空中戦で渡り合ったが、最後の折りには英空軍機の機銃が彼の左肘を撃った、と。ジョニーが通訳した。すると、「おまえの左肘を撃った?英空軍機が?はなはだ遺憾だ」と、ボクスホールは言った。
もうひとりの護衛隊員、ノルド司令部の家令か何かがわざわざやって来てのたまわった。特別夕食が準備中だ。それに……「ところで、こうしたイギリス人ときたら毎朝きまって髭を剃るよな。よし、朝の何時だろうと髭剃り用具は整えておいてやろう。ジョニー、そう言ってやってくれ。しかもだ、彼らの軍靴は朝にはぴかぴかに磨き立てられてある、とな。」
「そういう類のことはおまえの頭から掃きだしておくんだな。」と、ジョニーは彼にきめつけた。
夕闇が真っ逆さまに降りてきて、夕べの霧がゆっくりと、鰐みたいに谷間の水辺に押し入ってきた。と、その幻だらけの黄昏どきに地響きがして、無骨に力強いギャロップの響きと護衛隊員たちのしわがれ声の喊声が沸き起こった。そこでボクスホールが大口を開けて、ウィティカーはついに乗る馬を見つけた、と言った。
彼らは二人とも北の牧場へ急いだ。そしてヘーラクレースとルチアーノが彼らに加わった。すると、見よ!ウィティカーが農場から曳きだした堂々たるヨークシャー馬に跨がって泥水を撥ね飛ばしながら前へ後ろへと馬を責めている。馬はとうに泡を吹いて走り通したのだが、幽霊の出そうな夕闇のなかへ惹きこまれそうな、荒々しい、野蛮な、サクソン人の雄叫びをあげながら、彼はなおも馬を責めつづける。
ノルドがその荒れ野から彷徨い出て、ウィティカーのまさに次の走路を横切った。彼は異常に皺が寄って、その顔の皮膚は悲しみと復讐の念によって酷く灼けていた。いったい何事かと尋ねて、イギリス人がどうしても馬に乗りたがったのだと聞くと、彼は唇を固く噛み締めてから、命じた。「彼らには欲しがるものは何でもくれてやれ、分かったか?」ヘーラクレースが敢えて言った。「でも隊長、あなたの喪に差し障りが……?」「彼らには欲しがるものは何でもくれてやれ。わたしの喪に差し障ろうと。」そうして彼はその夕闇の荒れ野と服喪にまた発っていった。けれども彼は急に立ち止まると、嗄れ声でジョニーを呼び寄せた。「ヴァルディヴィッラではきみが先頭を切って、ぼくの父親の前にいた男だったというのはほんとうか?」
「そうだ。しかも時速八ないし九キロで急行したというのに、ぼくが少しでも歩度を緩めようとすると、きみの父上の足がぼくの踵を蹴ったのだ。」
彼は半ば微笑み、半ば嗚咽を洩らし、──渦を捲く靄のなかに見えなくなった。
ウィティカーが向こう端へと突進した。しかしこんどは彼は馬首を巡らさなかった。疲れ切ってはいたが興奮した馬は幻の柵を跳び越えて隣の牧場の向こうまで疾走した。やがて不意に、一同のそばだてた耳に、ギャロップが鎮まるのが聞こえて、誰かが叫び、あのイギリス人が叫び返して、小銃の銃声が一発。そして緩慢なギャロップと小銃の銃声の谺が消え失せたころに、ウィティカーが喉のかぎりに叫んで罵るのがとてもはっきりと聞こえてきたけれども、彼は泥のフィルターに向かって喚いているかのようで、また小銃の斉射音がした。
ルチアーノが言った。やつは次の歩哨線まで馬でつっかけたので、彼らが誰何して合言葉を訊いたのち、撃ちかけたのだ。そこで一同は泥水を撥ねあげながら草地を突っ切って、前方正面の歩哨群に金切り声をあげ、ボクスホールはパルチザンを罵りまくり、ウィティカーとヘーラクレースはいっそう声を張りあげた。
歩哨たちが彼らを誰何して止めたが、ルチアーノが合言葉を叫んで一同は泥まみれのウィティカーが棒立ちになって、キリストを罵っている溝まで行き着くことができた。
「どこか怪我したか?」ボクスホールとジョニーが同時に尋ねた。
ウィティカーは凍てついた泥濘から立ち上がって泥だらけの軍服の下の身体を触りながら確かめているところだった。「ぼくは無傷だ」と、ようやく彼が言った。「だが、いったいなんだって、畜生め、こいつらはぼくに撃ちかけるんだ?」
「彼らが誰何して合言葉を訊いたときにきみが答えなかったようだ。」
「なんでこのぼくがあんたらの合言葉なんぞを知ってるわけがある?」
銃撃した哨兵のひとりが一同のところまでやって来て、あの怒っている、泥まみれの男は誰なのかとルチアーノにこっそり尋ねた。「英軍ミッションの将校のひとりだ」と、ルチアーノが答えると、その男は顎を胸に埋めて言ったものだ。「暗かったのと動悸がしたお蔭で助かった。だっておれはほんとにやつを撃ち殺そうと狙ったんだから。」
続いてやってきた護衛隊員のひとりが遠くで、喘いで、哀れにも口泡を吹いていた馬を掴まえて、ボクスホールはひどくすげなくウィティカーに行こうと促した。
「巻きゲートルの片方が見つからないんだ。」
「いいから、中尉、行こう。」
(以下、工事中)
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